第11話 新しい命
中学の三年間、僕は一度も自転車には乗らなかった。休みの日に乗る事もなかった。やはり音が聞こえないままで自転車に乗る事は恐怖で、乗ってみようとも思わなかった。一度も動かさずにさび付いた銀のフレームの自転車は新品のままずっと玄関の外に置かれていた。
卒業式の朝、埃のたまったサドルに右手を触れた。蓄積された汚れを取ろうと、埃を払ったが、そう簡単には無くならなかった。何度も右手でパタパタとしたが無理だった。使うべく用意されたものの、使命を果たせずに朽ちた自転車は、僕がそれまで生きてきて見た自転車の中で一番美しく見えた。僕は小さくお辞儀をして、その自転車に敬意を表した。
春休みに入ってしばらく過ぎた頃だった。
【山森さんのところ、赤ちゃんが生まれたみたいよ】という母からのメモが朝食の横に置かれていた。
僕はテレビを付け、静かに食事をしながら、その紙を何度も繰り返し、目で読み返した。母はただ事実を伝えただけだ。僕が考えていることなんてどうでもいいのだろう。
それ以来、山森さんの家がより輝いて見えた。しかしそれは、舞台上に作られた空っぽの張りぼてにも見えた。そうであればどんなに安心して見ていられるだろう。
僕はずっと山森さんを憐れんでいたが、そんなつまらない事はいつの間にかしなくなっていた。それよりも僕はすっかり人間不信になっていた。あの事故から三年ちょっとが過ぎて記憶も感情もすっかり色褪せた。
町は何もなかったような顔をして平和な毎日を招き入れていたし、山森さん家族もそうして暮らしている。子供を一人亡くした後に、新しい命が生まれるという事に、僕はちっとも理解が出来なかった。
山森さんの両親は思い出をどのように処理しているのだろう。悲しみは? まだ残っているはずの怒りはどこへ。山森さんの代わりにはなり得ない別の幸せが芽生えた。僕は山森さんの妹に同情した。
中学を卒業後は通信制の高校へ通う事にしていた。耳が聞こえない僕には最善の選択だった。日常的に同級生との関わりも必要ない。両親は僕に何も期待していないのだろう。耳が聞こえなくなって以来、意思の疎通は文字だけだ。お互いに堅苦しい笑顔を使って、目に見えるやり取りをするだけ。心を通わせることはしなかった。
あの事故が無ければ、今頃どうなっていたのだろう、と考えたりもしたが、思うほど変わらないものかもしれない。
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