第9話 中学

 中学校では、楽しみにしていた自転車通学が始まる予定であったが、耳が聞こえない僕は自転車に乗る事を許可されなかった。


【自転車、せっかく買ったけど、買わなくても良かったわね】という母のメモ書きを見て、僕は小さな希望を無くした。


 もしかしたら、明日、僕の耳が聞こえるようになるかもしれないのに。広告の裏に書かれたそのメモを、右手でいつまでも握り潰して持っていた。そうしてしばらく立ち尽くしていた。声を上げて叫びそうになったが、自分の声が分からないため、どんな喜怒哀楽にも全く声を出さなくなっていて、曖昧な表情を母に見せた。母も適当な笑みを返してくれただけだった。


 先生も生徒も増える中学で、僕の事を知っているのは同じ小学校出身の者だけだ。そう思っていたが、あの大事故の噂はすでに広まっており、僕は学校中であの事故の通学団の子なんだよ、という認識をされたようだった。


 僕の耳について、各教科の最初の授業で先生にいちいち確認され、皆にじろじろと見られた。それは三年間、先生が変わる度に儀式のように続いた。僕は勉強も運動もできず、それはすべて耳が聞こえないせいになっていた。この耳が聞こえないうちは、努力する必要はなかった。


 中学の通学路は、小学校の頃に歩いた道とは違い、駅前を通り過ぎなければならないため、通勤するサラリーマンと毎日のようにぶつかったり、猛スピードで走る抜ける高校生の自転車に、何度も轢かれそうになった。

 

 僕は子犬のように怯え、常に歩道や、高架下の通路の壁沿いを歩いた。そのせいで肩から掛けた鞄が壁に擦れ、ひどく破れていた。母親に指摘され、やっと気が付いた。すぐに新品の同じ鞄を母親が買ってきたが、一週間後にはまた、同じ箇所が同じくらい擦れてしまった。再び、母親が新しい鞄を買う事はなかった。

 

 足元に、どんな花が咲いていたのかも知らず、通学路で野良猫を見た事もなかった。高層マンションがポツポツと立ち並ぶ中途半端な町で、一番残っている記憶は、耳に聞こえない舌打ちの音と、時間に追われる険しい顔の数々であった。追い抜きざまに睨まれる事も、日常茶飯事で慣れてしまった。

 

 通学路の距離が長くなった分、電信柱の数も多かった。小学校の通学路よりも約三倍はあるだろう。だが下を見ながら歩くことはできなかった。

 

 いや、そうじゃない。電信柱を数えるのをやめただけだ。



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