第4話 救急車

 どれくらいの時間が経ったのか、世界は怖いくらいに静かだった。

 

 パトカーや救急車が数台現れた。赤く回転するランプがいくつも重なった。騒然という言葉がぴったりの事故現場には、いつの間にか野次馬が集まり、僕らを多くの視線が取り囲んでいた。

 

 大きな声の女性が指を差して叫んでいるように見えた。

 一番に、山森さんの体が担架に乗せられ、慌てるように救急車は発車した。女性は、その後到着した隊員にも手際よく指図していた。与えられた仕事を忠実にこなしているようだ。

 

 一年生の優斗くんと沙耶ちゃん、二年生のかなでちゃんをそれぞれ乗せた救急車もあっという間に居なくなった。

 消防隊員がドアをこじ開け、運転手を救出した。口から泡を出し、白目をむいて痙攣していた初老の男性。だらりと右腕を垂れ、生命力はまるで感じられなかった。

 四年生の綺羅ちゃんと他三人は、二つの救急車に分かれ、綺羅ちゃんの母親は綺羅ちゃんの救急車へ乗っていった。

 最後の救急車には、遠藤君と僕が乗せられた。かすり傷一つ負わなかったが病院へ連れて行かれた。

 遠藤君は車内でも、奇声を上げて立ち上がろうとした。救急車に乗っていても、いつもと何ら変わりのない日常が遠藤君には流れていた。足で円を描けないから、同じリズムで横に大きく揺れ、それを何度も何度も繰り返した。

 僕は、そんな遠藤君を羨ましく思った。彼は、物事を上手に理解できない代わりに、自身を強く守る力を持っている。


 救急隊員が何か話し掛けてきたが、僕には何も聞こえなかった。何か言葉にしようとしたが無理だった。何も言わない僕の背中を、隊員は優しく二回叩いた。僕はびっくりして、その場で飛び上がった。そんな僕に対して隊員は少し笑った。馬鹿にされたような気がした。

 

 救急車は思っていたよりも速くは走らなかった。病院に着くまでの時間は、通学団で小学校へ行くよりも、時間が掛かったような気がした。

 運ばれた病院は、見た事もないくらいの大病院だった。真っ白で巨大な建物は、見ただけで重病になりそうな威圧感があった。 

 

 救急車から降りると、僕と遠藤君は車いすに座らされ、病院内へ連れて行かれた。数人の看護師たちに声を掛けられたが、僕にはやはり何も聞こえなかった。遠藤君もまた、その問いかけに答えることはしなかった。


 病院で体中を一通り検査された。怪我は一つもなかった。当然だ。僕は転んでもいない。数人の医者に体のあちこちを触られ、痛みはあるかないかの質問をされ、もちろん耳の検査もされた。耳はどこにも異常がなく、聞こえなくなっているのは精神的な問題で、時間が経てば聞こえるようになる、という診断だったと、のちに母から聞かされた。最後の医者が、異常な程の笑顔で笑いかけてきた事に僕は恐怖した。そんな不自然な笑顔は必要なかった。


 診察が全て終わった頃に、母が迎えに来た。制服を着た母の姿が他人のようだった。母の声も僕の耳には届かなかった。

 医者から、僕の耳の事を知らされた母は戸惑い、僕を抱きかかえるだけで、まるで他人のように接した。

 病院からはタクシーで帰った。

 僕はその時、生まれて初めてタクシーに乗った。後部座席はクッションがすごく、お尻が何度も浮き上がった。安定感がなく、転がりそうだったので座席の前にあった手すりにつかまった。

 運転手が、母に話し掛けたようだった。母は僕の顔をチラチラと見ながら、運転手の言葉に相槌を打っていた。どんな会話をしたのか分からないが、あまりにも僕を気にするので、事故の話なのかと想像した。


 僕の耳が聞こえなくなっているという事実を母自身もよく理解できていないのだ。本当に聞こえないのだろうか、と疑っていたのかもしれない。母の表情は硬く緊張し、運転手には短く愛想の無い返事をしているように見えた。しきりに腕時計を見て落ち着かない様子。

 

 家に帰ってから僕は部屋にこもり、音の無い世界で、あてもなくさまよった。


 母が食事を運んできたが、昼食なのか夕食なのか分からないまま、とりあえず、口の中に入れた。ずっと両手は震えていた。小刻みに揺れる手の平をじっと眺めた。生きているんだ、と思った。震えながらも指は動いた。力が入らず、ふらつく様な足でも、ちゃんと目的の場所には行けた。

 

 窓際に立ち、閉め切ってあった窓を開けた。

 生ぬるい、じっとりとした風が吹いてきた。夜空の月は半分だった。邪魔するものは何もなく綺麗だった。 

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