第3話 音が消えた瞬間
僕は汗臭い背中にランドセルをくっつけたままで立ち尽くし、足元を見たり両手を合わせてこすりつけたりした。息を吸うのが難しかった。苦しくて小刻みに何度も吸ったり吐いたりしていた。深呼吸ができなくなった。空を見た。さっき見た青空は真っ白な雲に覆われていた。
遠藤君が上げる奇声は、現実に呼び戻す優れた道具だった。先ほどの女性は山森さんの方へ行き四つん這いになっていた。車体の下、ちょうど真ん中に山森さんがいつも履いている真っ赤な運動靴が転がっていた。
僕は突っ立ったままで、何とか山森さんの姿を見ようと背伸びをしたり、左に大きく体を傾けたりしていた。やっとの思いで目に入ったのは、体操服姿の山森さんの横たわる下半身だった。腰と膝を曲げ、体育座りのまま倒れたような恰好だった。不自然な態勢。
ランドセルが一つ、とんでもない場所に転がっていた。蓋部分に、班長になる事を許された者だけが付けられる黄色い「班長カバー」が見えたから、山森さんのランドセルで間違いなかった。パカッと大きな口を開けたランドセルの中身が、そこら中に飛び散っていた。
転がったリコーダーを見て、五時間目は音楽だ、とぼんやりと思った。
通学団の班長に選ばれるのは人気投票のようなもので、班長イコール人気者だ。山森さんと僕しかいない六年生で、山森さんが選ばれたことに何も異論はなかったが、班長決めの時、「吉井君は体が弱いから、班長に選ばれなくてよかったね。」と言った山森さんに、僕は腹の底が煮えるような憎しみを覚えた。
保育園から一緒の山森さんには、小さい頃から僕が喘息で苦しんでいる姿を見られ続けていた。山森さんの記憶の中では、僕は一生、喘息患者のまま生きて、そして死ぬ存在だったのだろう。無意識に傷つけられる事程、虚しい事はない。
「早く救急車来ないかしら。」
大きな声の女性。その声がスッと僕の耳に届いてきた。
遠くでサイレンの音が鳴っているのが聞こえ、ハッとした。
山森さん以外の一年生と二年生の三人は自動車の周りに散らばるように倒れていて、小さな体からはやはりランドセルは引きはがされており、おはじきをばらまいたように、地面のあちらこちらに散らばっていた。
「綺羅ちゃん! 綺羅ちゃん! どこ?」
丸まって震えていた四年生の白井綺羅ちゃんの母親だった。事故の音を聞いて駆け付けたらしい。
「まあ、なんてこと、何が起きたのよ……。」
綺羅ちゃんの母親は、地面に尻もちをつくようにして座り、綺羅ちゃんの肩を抱きかかえた。
「みんな、ごめんね。みんなのお母さんたち、お仕事に行ってて、すぐに連絡するから、待ってね。」
その声は今までに聞いたことのないような緊迫したものだった。激しく震え、音声は途切れ途切れで、完全な恐怖に支配されていた。それからどこかへ連絡する様子もなく、
「かなでちゃんは? 優斗くんと沙耶ちゃんは? 」
興奮して言葉を口走っていたが、感情はどこかへ飛んで行った様子、表情はこわばり、事務的に言わなければならない言葉を出し続けているだけのようだった。
綺羅ちゃんの母親の声が、テレビのボリュームを一つずつ下げるように遠く小さくなった。雑音と騒音が徐々に聞こえなくなり、情報を得るのは視界しかなくなった。
空を仰ぎ見ると、またあの鮮やかな青が目に飛び込んできた。目がくらみ、うつむき、歩道に座り込んだ。両手の平を地面につけると熱が伝わってきた。
今日、この一日は、これから始まる。僕は遠藤君の正確に動く白い足元を目で追い、それを一心に見ていた。
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