第2話 事故
梅雨の合間の晴れた日。ランドセルと密着した背中にぐっしょりと汗が噴き出てきて不快だ。一時間目が体育だからと家から着ていた体操服の、洗濯したての良い香りは、鼻をつく汗の匂いにすでに白旗を上げていた。蒸した空気に嫌気がさした。
歩くのが遅い低学年のペースに合わせるのに疲労がたまる。子供らしく浅い不満を感じていた。早く歩け、立ち止まるな。黙って念じて歩いた。
最後尾で大きくため息をついた時だった。
下を向いて歩いていた僕の耳に爆音が届いた。顔を上げた僕の、目の前。一台の乗用車が歩道を横切り、住宅のブロック塀に正面からぶつかって止まっていた。青い車だ。非常に暴力的な後姿をした車。
一年生の男の子と女の子、その後ろを歩いていた二年生の女の子、そして誰よりも一番に、先頭を歩いていた班長でクラスメートの山森さんが車の陰に姿を消していた。
それを見た瞬間、さーっと風が流れる音が聞こえた。その風がまた、少しひんやりと心地よく、僕は思わず空を仰いだ。大きく息を吸った。全く雲のない青空、淡くも鮮やかな青。再び下に視線を落とすことをためらうほど透明だった。
遠藤君のけたたましい声が聞こえ、それまでの静寂が消え去った。
僕は慌てて、視線を歩道の上に戻した。青空の残像が残った小さな視界を、しばらく動かす事が出来なかった。鼻先一つで轢かれずに済んだ他の小学生は、大きな悲鳴と泣き声を上げ、ランドセルを背負ったまま小さく震えていた。
落ち着きのない五年生の遠藤君は大きな体を持て余し、「あー、あー」と言いながら、両手で頭を抱え、自分を中心として真っ白いスニーカーで半径三十センチほどの円を上手に描いていた。
遠藤君の声に現実に戻され状況をやっと判断した。小刻みに震えていた足。必死に前に動かした。右、左、と言い聞かせないと動かないくらいに体は心に支配され、真の恐怖が体に巻き付いていた。
生まれて初めて聞いた、とんでもない音量が発生していたことにも、後からの記憶で思い出した。あの青空を仰ぐ数秒前。
知らない大人が数人、駆け寄ってきた。大きな声を出すだけの人や、スマートフォンでしゃべっている人、震えている小さな命を温めている人と、様々であった。運転席に駆け寄り、大声で窓を叩いている女性がいた。
「大丈夫ですか! 聞こえますか!」
何度も繰り返し叫んでいた。
車内に目をやると、ハンドルを抱きかかえるようにして、うつ伏せになっている頭髪の薄い男性が見えた。ドアがロックされているよう。女性の顔はひきつっていた。
「今、救急車呼びましたから。」
若い男性が辺り一帯に居る人間に聞こえるように叫んだ。
「なんてことだよ……。」
何もせずに状況を見ているだけの小太りの中年男性がつぶやいた。そこはもう、僕の知っている通学路ではなくなっていた。部外者が大勢いて、無神経に踏みにじっていた。
山森さんのそばへ行こうとした時、先ほどの大きな声の女性に腕をつかまれた。
「君はここで待っていなさい。」
ぴしゃりと言われ、僕の体は再び固まった。
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