緩解

高田れとろ

第1話 通学路

 毎年同じ場所で咲くタンポポ、野良猫の通り道、デコレーションされた借家。溝(どぶ)に落ちていた財布が次の日になくなっていた事。雨が降れば、いくつもの水たまりができた。濡らして帰った運動靴は玄関に脱いだまま。翌日の晴れた歩道に、湿った靴を乗せた感覚はゾクッとして不気味だった。通学路に何本電信柱が立っているのか、分かり切っているのに数えながら歩く癖。足元だけを見て歩き、歩道の左右に視線を振る。それだけで電信柱の存在は確かめられた。進行方向を見るのが嫌で、つま先を見ながら歩いている時に思い立った自分だけの遊びだった。

 

 家を出てすぐに人と関わる事に強烈な嫌悪感があった。通学団だ。自分より年下の子供たちから逃れるのは無理だ。大人しい僕にランドセルを叩いてきたり、あからさまに汚いものを見るような視線を突き刺してくる低学年。

 忘れ物を思い出した時、僕は無言で歩いてきた方向へ走り出した。数人の子供がそれに気が付き、「あっ」という声を出すが、それ以上何もなかった。慌てて走っていた時も、電信柱を数えながら走った。切らした息は静かに消えた。やっと辿り着いた家は驚くほど静かだった。僕が学校へ行っている間、ここはこんなにも静かなのだと知って泣きたくなった。

 

 四季は当たり前のように転がる。暑かったり寒かったりは、無力なまま受け入れるしかなかった。学校から家に通じる空間にはただ道があるだけで、足元は宙を浮いているような感覚だ。現実と非現実、その境界線もあった。目に見えない境目。時々、混乱した。どっちが本当でどっちが嘘か。

 家に帰ると全くの別人になる自分がいたのだ。学校で過ごす自分は家には居ないし、家に居る自分は学校には居なかった。


 共働きの両親は僕が起きる時にはすでに家には居なかった。毎朝、簡単な朝食が用意されていた。炊飯器のごはんと、ガスコンロの上にある鍋の中には味噌汁。テーブルの上には卵焼きと魚の煮物の缶詰の中身が小さな皿に盛られていた。

 テレビをつけて、それを見ながら一人で黙々と食事をする。毎日同じメニューでも食べ飽きるものではない。朝はお腹が空いているから何を食べても美味しかった。特に缶詰の魚は大好物だった。

 お決まりの朝のニュースは、時計代わりになるほど見慣れ、正確な時間が流れた。天気予報が始まって一分後くらいが、家を出る時間だった。窓から雨の音が聞こえる朝はまだ良かった。傘を持って行くか行かないかはっきりしない日は、朝食を食べながら憂鬱になった。家を出る時間が近づくのを呪った。そんな日もテレビの天気予報はちゃんと放送された。しかも楽しそうに。僕はそれを見て判断する。傘が要るか要らないか。集合場所に行ったら、誰一人傘を持っていなかった時の孤独は、死ぬまで忘れられない。

 

 小学生は不自由だ。狭い世界に閉じ込められ、他に何かを知る事は許されていない。牢屋のように、暗くて窮屈な場所で生かされているのだ。

 来年四月からの自転車通学を楽しみにしているクラスの皆は、早く学生服を着たいとか、部活は何に入るとか言い、中学校に自由を見出し夢見ていた。皆もこの生活に不自由を感じているらしい。だが、僕と皆の感情は同じようには計れない。どれだけ考えた? 悩んだ? 苦しかった? 問い詰めた自分に泣かされた事は? ある? ないだろう? 

 寝ぼけたようなクラスメートと僕は違う。だが、僕もそんな皆と同じように、中学生になるのを心の中で待ち遠しく思っていた。似たような世界があるだけだと思っていたが、少しは良い場所かもしれないと期待だけはしていた。

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