第21話 怨みつらみ
おばあさんは素っ気なく言うと背を向け、サンダルを脱ぎ廊下を歩き出した。とてもゆったりとしたペースだった。この人にだけ、時間がゆっくりと流れているのかも知れない。いや、もしくは、俺たちが日々の生活を急いて送っているだけなのかも知れない。人間、八十年もあるというのに。
俺も玄関に入り靴を脱いだ。玄関には、サンダルと紫の花柄の靴しかなかった。一人暮らしで間違いはないようだった。
おばあさんは襖を開けると、どうぞと言い居間に通してくれた。
居間は廊下と同じくオレンジ色の照明を使い、暖かみがあった。真ん中には黒い木目のテーブルがあり、奥には小さなテレビが置かれている。右手には障子が閉まっていた。
座布団を渡され、好きなところに座ってと言われたが、俺は下座に座った。
おばあさんは障子を開け、台所に向かった。しばらくして、お茶を持って来てくれた。湯呑みからは、湯気がゆらゆらと揺れていた。今飲めば火傷は必須だろう。
おばあさんは俺の向かい側に座ると、
「それで、聞きたいことっていうのは。でもなんで今更? 時間もけっこう経ってるのに」
俺は一から説明した。不登校の生徒がおり、猫殺しの犯人だと噂されているため捜査していること。そして貼り紙を見て飼い猫であると知り、こうしてやって来たと。
「ふうん、なるほど。それは気の毒にねぇ」とおばあさんは眉をしかめて言った。
「おばあさんは、どうやって殺されたことを知ったんですか? 誰もが野良猫と思っていたので、おばあさんまでには届かないように思うのですが」
「説明してあげる」とおばあさんは言った。「一月近く前の話よ。一週間近くミヤが帰ってこないものだから、私は貼り紙を貼ることにしたの。すると、春風高校の生徒が連絡くれたのよ。こう言ってたわ。学校で何度かミヤを見たことがあって、殺されたのは薄茶色の猫だと噂で聞いていた。そこで迷い猫の貼り紙を見つけて、もしかして殺されたのはミヤじゃないかと思ったって。
それで私は保健所を訪ねてみた。その子の言う通りミヤだったわ」
「それは、貼り紙をはって何日ほど経った話ですか?」
「四日、五日くらいかしらねぇ……、貼り紙もそれくらいで外してしまったし」とおばあさんは言った。
多くの生徒は殺された猫の特徴を知らない。それに、そんな短期間で外されてしまえば、見る機会も少なくなる。だから、飼い猫であるということが学校に広まらなかったのだろう。
俺は言った。「では、なぜ通報しなかったのです? 事故ではなく、殺されたことのですよ」
おばあさんは厳しい顔を悲しげに曇らせ、下を向いた。ももに置いている手を見つめているようだった。なにかに後悔し、嘆いているようにも見えた。
数秒間そうしていると、顔を上げた。
「怖くなったのよ。犯人に怨まれていると思ったから」
「どうして、そう思うんです」と俺は言った。分かりきったことではあったが。
「私はね、よく学校にクレームを入れてたのよ。それもしつこく。生徒にも、うるさく言ってきた。かなり酷いこともね……。
だから、真っ先に怨みによるものだと思ったのよ。学校で殺されたと聞いたしね。すると途端に怖くなってきた。家と学校は目の鼻の先だし、通報でもすれば家に火をつけられるんじゃないかって……。猫を殺すようなやからだからねぇ、それくらいしでかしても可笑しくないもの。なにかしらの報復があると思ったね。年寄りの一人暮らしだから、下手なことをされると、もう生活なんて……。通報なんて、怖くて怖くて。
クレームを入れていた理由を白状すれば、孤独や苛立ちのストレスをぶつけていたのさ。でも、負い目も感じていた。だから真っ先に怨まれていると考えたんでしょうね。ミヤには悪いけど、私は怖くてねえ」
「お気持ちはお察しします」と俺は言った。「では、北川という生徒はご存知ですか?」
「ええ、覚えている。最近のことだしね」とおばあさんはお茶を飲みながら言った。「確か学校でタバコを吸っていた子よね」
「そうです。おばあさんは、この北川を叱ったと思うんですが、けっこうきつく言われたんですか?」
おばあさんは頬に手を当て、少し考えたあと、
「……そうだねぇ、癇癪を起こして言ったわ。すると、その男の子も怒鳴りつけてきてね。それで学校に連絡を入れたわ」
「そうですか」と俺は言った。
おばあさん自身も癇癪を起こしたと自覚したほどだ。かなりの口汚さだったと予測できる。
おばあさんは、おどおどと言った。「もしかして、その北川って子が……?」
「いえ、まだ解りません」
「そ、そう……」
「ですが、おばあさんも怨みによるもの犯行と考えるほどだ。動機はそこにあるのでしょう」
「やっぱり、そうよね……」
おばあさんは弱々しく肩を落とした。その姿は、一人暮らしの寂しいおばあさんには合っていた。あまり見たいものでもなかった。
「他に思い当たる人物はいませんか」と俺は訊いた。
「といってもねえ、どうだろうね……。その、いっぱい文句を入れてきたから……。歳もあるから、忘れてることもあるだろうし」
歳で忘れてしまう。卑怯なことだ。暴れた方が忘れてしまうなんて。
「なるほど、よくわかりました」と俺は言った。
そのあと、お暇することにした。お茶には手をつけなかった。
おばあさんは玄関まで見送りに来てくれた。夜も遅いから、気をつけてねと言ってくれた。
俺は夜分遅くに訪ねたことを詫び、そして礼を言うと駅に向かって歩き出した。
辺りにひとけはなく、とても静かだった。みな何かに怯えているようだった。俺の足音だけがひっそりと聞こえていた。考えごとをするには、いい環境であった。
北川は、ナイフを持っていた。いつも持ち歩いているとも言っていた。あれで猫をやったのだろうか?
だが、あれは脅しのために持っているだけだと言っていた。嘘ではないように思う。動物といえど、北川にそんな度胸はないだろう。せいぜいタバコを吸い、おばあさんに怒鳴りつけるのが関の山だ。
それに、あの猫はおばあさんのペットだと知る術が、北川にはあるのだろうか。家の前で張り込んでいないと解らないのではないか。しかし、そんな不審な真似はできないだろう。
そもそも、北川はいつ犯行をなし得たというのだ? 授業中になにかしらの用事で抜け出して? だがそんな話は聞いていないし、そうだとすれば真っ先に北川が疑われるだろう。
しかし、怨みという観点から考えた場合、北川は当てはまるのだ。嫌がらせのためさくらを犯人に仕立て上げたと言っていたが、自分が疑われないために疑惑を持たせたのかも知れない。
だいぶ狂ってはいるが、一応説明はつく。猫を殺している時点で、正気ではないのだから。
だが、この推理は穴だらけなのだ。確信的なものはまだなにもない。
俺は吐息をつき、空を見上げた。特に感想もない夜空だった。小さな星がぽつぽつと浮かび、半月が昇っている。平凡な芸術家でも描けるような夜空だった。
俺は自動販売機を見つけると、缶コーヒーを買い一気に飲みきり、駅に向かった。
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