第3話 短い挨拶

 階段を登り、廊下を少し歩くと、『さくら』と書かれたプレートが下がっている扉を発見した。


 扉の前に立ち止まり耳をすませてみたが、なにも聞こえなかった。なので、扉に耳を当ててみることにした。少女の部屋に聞き耳を立てるのは紳士の行動ではないが、俺は紳士ではなかった。

 中からは、カチャカチャとボタンを押すような音が聞こえる。ゲームのコントローラのボタン音だろうか? ゲーム音は聞こえないため、イヤホンをしているのかも知れないし、家族に気を使って無音でプレイしているのかも知れない。


 俺は扉に耳を当てながらノックした。するとぴたりと音は止まった。途端にひんやりとしたものを耳に感じた。


 俺は扉に耳を当てながら言った。「いきなりすまない、俺は生徒相談委員の夢野だ。少し話をできないだろうか」


 数秒待ってみたが、返事はなかった。物音も聞こえなかった。まるで誰もいないようだった。


 俺はまた語りかけた。

「すまないな、突然。迷惑かも知れないが、力になれないかと思って。扉越しでも構わないから、少し話をしたいんだ。どうだろう」


 やはり返事はない。だが当然の結果だった。俺も一回の訪問で部屋に入れるとは考えていなかった。では十回目で入れるのかと問われれば、そんな保証もやはりなかった。


「また来るよ。そうだな、明日は土曜日だし、月曜日にでもお邪魔させてもらうよ。じゃあ」

 念のため返事がないか確認し、俺は階段に向かい歩き出した。こうして遠ざかる足音を、彼女も扉に耳を当て聞いているのだろうか。


 一階に降りると、リビングの扉を開けた。母親はキッチンに立ち洗い物をしていた。俺は挨拶をし、また月曜日来ることを告げた。母親は、部屋には入れた? と言った。俺は駄目でしたと一言答えた。

 玄関で靴を履いていると、母親は見送りに来てくれた。薄い微笑を浮かべ、ありがとうねと言われた。我が子を慈しむ母親の顔だった。


 俺は頭を下げ、外に出た。

 住宅街を歩いていく。途中で、自動販売機を見つけ缶コーヒーを買った。デスクで飲んでいたものとは違うメーカーのコーヒーだった。これもまた、コクのある味わいと書いている。今度は嘘ではないことを願った。

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