第56話 邪竜②
「平川さん、お願いがあるんだ」
「何?ここまで来たんだから、何でも言ってよ」
ここまで、か。確かにすごいところまで来てしまった。ここは江戸川区の上空で、江戸川区には存在しないはずのドラゴンの肩の上で、そして、邪竜の目の前だ。
「呪文に集中したいから、振り落とされないようにこのまま手を繋いでいて欲しいんだ」
俺は今すごいことを言っていないか。知恵と会話することも、目を合わせることも緊張していたのに、今は手を繋いでいて欲しいなんて言っている。こんな状況でテンションがおかしくなっているみたいだ。
「もちろん。任せて」
知恵ならそう言うことはわかりきっていた。だからこそ安心して頼めた。
知恵と繋いだ左手にぎゅっと力が入る。自分の力か、知恵の力か。知恵と目を合わせる。知恵がこくりと頷く。その顔をしっかりと脳裏に焼き付けて、正面へと向き直す。
正面にいるのは邪竜だ。その凶悪な顔が目の前で怒り狂ったように大口を開けている。邪竜が暴れる度に、邪竜を掴んでいる葛西水龍の体も揺れる。でもそれは気にしない。恐れも胸の奥にしまっておく。俺たちが乗っている葛西水龍の体が揺れるおかげで、俺の体が震えているかはよくわからない。いや、きっと震えてはいない。
「なはらじゃかばらじゃぬがれさばらしえごがばらじゃ」
人間には聞き取りづらい甲高い声と、太鼓のような低い声を混ぜたような特殊な発声を行い、呪文を唱え始める。これは邪竜を苦しめるものではない。ドラゴンが人に危害を加えると誤解している邪竜に、そんな事はないのだと伝えてあげるためのものだ。
本来はドラゴン同士でコミュニケーションを取るための習性を利用して行動をコントロールする生物学的な手法であって、「呪文」というほど宗教的なものではない。
呪文を唱えながら笛を取り出し、今度は笛の音色を邪竜に伝える。動きは鈍っているように見えるが、どうだろうか。
「がざりんかびらごまずごいばしんざぐ」
再び呪文を唱える。笛を吹く、呪文を唱える。これを5回ほど繰り返したところで、明らかな動きが見えた。
「邪竜が力を抜いた?」
知恵の言うとおり、先ほどまで葛西水龍の拘束を振りほどこうと暴れていた邪竜が、だらっと手足の力を抜いて落ち着いたようだ。
それを見た葛西水龍は邪竜の足を捕まえていた尾と、右腕を捕まえていた左手を離した。
邪竜と葛西水龍がゆっくりと空を飛び、少しずつ距離を空けていく。
「争いが終わったみたい。竜一くんの言葉が伝わったんだわ。このまま帰ってくれるのかな」
言葉、と言ってくれるのが知恵らしい。しかし帰ると言っても邪竜はどこに帰るのだろう。
「がが」
邪竜は俺の顔を見ると落ち着いた様子で一言だけ告げ、背を向けた。「わかったよ。悪かった」と言っているように思った。なんて、ドラゴンの、それも邪竜の言葉をドラゴン嫌いの俺がわかった気になるのはおかしな話だろうか。
邪竜はそのまま海の向こうへ飛んでいき、海の中に帰ったようにも見えたが、同時に夕陽が地平線に隠れたので正確にはよくわからなかった。
「やった!これで江戸川区は守られたのね!」
「・・・うん、そうだね」
江戸川区を守ったなんて、そんなつもりはなかったけど、これだけ大変なことをやり切ったんだから少しは自信を持っていいのかな。俺は、ダサくない。
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