第2話

目を開けると、いつも通りのクローゼットが見えた。ホッとして、息を吐く。恐る恐るもう一度クローゼットを開ければ、見慣れた洋服が並んでいて。思わず座り込んだ。何なんだあれは。あんなの、普通じゃない。私は平凡で普通でいいのに。こんな非日常いらない、と心の中で叫ぶ。時計を確認すると、19時。2時間向こうで過ごしていたようだ。スマホを確認すれば、たくさんの通知。仲良しのメンバーのグループチャットが盛り上がっていて、皆でくだらない会話が続いていた。そこに一度も私の名前は出てなくて。また心が、ぽっかり空いた。彼女達に必要とされたいと思っているわけでもないのに。なぜかモヤモヤしてしまう。そんなふうに感じてしまう自分自身もちっぽけで、嫌になる。





 しばらく、いつもの日常が続いた。普通の日常を普通に、無難に当たり前に過ごしていく。前と変わらないはずなのに、ジグソーパズルの最後の1ピースをなくしたかのような漠然とした感覚が私の中に現れた。見ている世界が常にフィルター越しに見えているようだ。どこか他人事でつまらない。



「ねぇ、ソラ、最近全然笑わなくない? どったの」

「気分転換にどっかいこっか、どこいきたい?」

「みんなの行きたいところでいいよ」

「はぁー、もうソラってばいつもそれ」

「つまんないの」



 胸を刀で突き刺されたような感覚。友達が何気なく発した言葉が、凶器となって、ずっと心の奥底に潜んでいた感情を切り裂いた。でも、それを表に出さず、じゃあタピオカかな、といった。すると友達たちは、まかせて、と嬉しそうに言う。どうやら私の選択肢は正解だったらしい。帰りにタピオカを買って帰る。うん、普通だ。普通でいい。ほっと息をつく。



「あれ……?」



 ふと視線を感じて後ろを振り返る。そこは教室の掃除用具入れがあるだけ。変わらない風景に首を傾げ、友達を追いかけた。





 タピオカが激混みだったため、ス○バに変更し、新作を堪能したあと、家に帰って、和室に行く。母と父にただいま、と声をかけたあと、いつも通り、特別何も意識せずに、クローゼットを開けた。すると、久しぶりのあの空間がそこにあった。



「あ、久しぶりー」

「お、君が噂の!」

「あらあら、随分かわいい子ね」



 人が増えていた。一気に面倒くささが体の中で溢れて、無言でドアを閉めようとする。しかし、ドアは閉まることなく、隙間に入れられた優しい赤のネイルが施された指に遮られた。彼女の鮮やかな赤に対して私は雨降った次の日にできた水溜りが映す空のように茶色く濁った気分になった。



「つれないわねぇ、おしゃべりしましょうよ」



 はあ、とため息をついて、またパステルカラーの世界に足を踏み入れる。中に入ってすぐさま私に駆け寄ってきた赤いネイルの派手な女は、男受けしそうな甘ったるい香水の匂いがする。私のことを上から下まで眺めたあと地味だね、とニマニマしながら言う。煩いな、何なんだこいつは、とにらみつけると、前髪が長く、目がこちらからは見えない、ミント色のパーカーを着た少女がまぁまぁ、と彼女を抑えた。



「私の名前はローズよ」

「私は、ミドリです」

「ソラです……」



 ローズは薄桜色のロングワンピースをたなびかせ、赤いネイルの施された手で前髪を掻き分け、椅子に優雅に座る。辺りには椅子とテーブルが用意されていて、オレンジジュースとカ○ピスを混ぜたような飲み物が用意されている。ローズに対してミドリは今にも消えてしまいそうなほど存在感が薄く、ミント色のダボッとしたパーカーが周囲の背景と同化してどこにいるかわからなくなりそうだ。対象的な二人だ。シロはローズの隣にちょこんと座って、頭を撫でられるなり満足そうに笑みを浮かべる。カナリーは顔にまた絵の具がついている。けれど、どれも薄い色合いだ。この世界は相変わらずパステルカラーにまみれていて、原色らしい色はない。ローズの赤いネイルだって、白が混ぜられた優しい赤だ。もとは真っ赤だったけれど使い古されて色が落ちていってしまった――そんな色彩だ。サーモンピンクとも、ローズピンクとも違う独特な色合い。ふと、私の制服を見る。私の制服は真っ青な空にうっすらかかる雲をグチャグチャに混ぜて作ったよう色に変わっていた。前回気づかなかったが、ここに来ると自動的に服やら髪やらすべてがパステルカラーになるようだ。統一されすぎた色は精神がおかしい人たちの収容所みたいで優しさどころか不気味さを感じてしまう。



「ねぇ、早く座って、それで私の情熱的ではっげしぃ恋の話、聞いてよ」

「えぇ、またその話ですか?」

「もう耳にオクトパスだよ?」



 耳にタコができる、という諺のタコは生物のタコじゃないと思うな? と疑問に思いつつみんながスルーしているので私も当たり前のように席に座る。



「じゃあ話すわ、新人さんが来てから初めてだもの」

「私が来てから50回目ですけどね」

「ローズが来てから100回は聞いたんだけど」

「はい、そこおだまり」



 パン、と手を叩くと彼女は大袈裟に身振り手振りを大きく使いながら話し始めた。



「私ね大好きな彼がいたの! 今でもその彼のこと忘れられないわ。 でもお互い忙しくって全然会えなかったけどね。それでも合間を縫って会いに行ったわ! まず彼はねハンサムで……」



 はぁ、ほんとに素敵……と空を見ながらため息を溢す。世界中の幸せを抱きしめているようなそんな表情をしていた。愛の言葉がそれはもう止まらないったら止まらない。口から砂糖を吐いているようだ。それも粉砂糖なんて優しいものではなく、固められた角砂糖。ミドリは呆れ顔、カナリーは絵を描き始めた、シロはいつの間にかコテンと寝ている。ただの惚気じゃん、と思いつつも普段からそういう話を友達からよく聞かされている私は適当に相槌をうって、話を聞いていたが、段々飽き飽きとしてきた。



「あらもう、みんなつれないわねぇ、ねぇあなた恋愛をしたことは?」

「ないよ、そんなの」

「えぇ、勿体無いわ! 少しでもあるでしょう? きゅん、と心臓が跳ね上がる瞬間、身が焦がれるような思いに駆られたこと、心の底から愛おしくて抱きしめたくなったりとか!」

「あんまり好きとか恋愛だとかわからないよ」



 もったいなぁーい、と呟く。溢れた言葉の一つ一つが彼女の今までの人生を物語っているようだった。きっとこの人は、恋に生き、恋を心から愛していたのだろう。恋する自分も、自分に恋する相手のことも大好きだったのだ。キラキラと輝いていて私には苦しいほど眩しい。彼女は、でもまぁ、と途端に酷く冷めた声を出す。



「死んじゃったんだけどね」



 え、と思わず声が出た。諦めたような声だった。悲しさなんてものはもうとっくに通り過ぎて、淡白な表情をしていた。それでも彼女の瞳だけは柔らかな灯火を宿していて。私は迷路に迷い込んだような複雑な感情になった。



「一番最初に薄れたのは声、次は顔、最後はぬくもり。彼がね、私の中でだけ生きていた彼がどんどん消えていくの。悲しくて悲しくてたまらない! でもね、それと同時に愛おしくてしょうがないの。だからね、忘れたくなくって、こうしてずっとここにいる。ここにいれば彼と出会った頃の自分に戻れる気がして。外の世界なんて、彼を消した世界なんてもう行きたくないの。それでみんなにこうやって話をするのよ」



 彼女は愛おしそうに目を細める。でも私にはわからなかった。彼を大切に思うあまり、外の世界に出ないなんて。狂気すら感じる。きっとその亡くなった彼もそこまで望んでいないだろう。なぜ忘れて生きていこうとしないのか。



「……なんでそこまで大切に思えるんですか」

「なんでって、理由はないわ。大切なものは大切。愛おしいから忘れたくない。それでいいじゃない?」

「そんなの、普通じゃない! 外の世界に出ずにただ引きこもってこうして過去にすがりついて!」



 私はいつの間にかそんなことを言っていた。普段なら隠して絶対に言わないようなことを口走ってしまっていた。彼女は大きく目を見開き、泣きそうに顔を歪ませ、そうよね、と呟く。



「確かにあなたにとっては普通じゃないのかもしれない。でも、私には普通だわ。彼を忘れて生きていくことのほうが普通じゃないもの」

「何それ……!」



 理解ができなかった。どうしても納得が行かなかった。普通であることがいいことだと、そう思い込んできたのに。唐突にシロが私達の間に入ってきた。こちらを鋭くにらみつける。ミドリも、カナリーもこちらを睨んでいた。



「ここでは誰かの行動に誰かが文句をつけることはルール違反だよ」

「普通じゃないことを普通じゃないと非難して何が悪いの!?」

「じゃあさ、逆に聞くけど、普通って何?」

「普通は普通よ! ここの人たちはみんなおかしい! こんな気味の悪いパステルカラーに囲まれた世界で、外の世界から目を逸らして生きていくなんて!」



 パンッ、と頬に鋭く痛みが走る。引っ叩かれたのだ。あまりの衝撃に世界が一瞬白くなった。叩いたのは、ミドリだった。



「頭冷やしてきなさい」



 言われるがまま私は駆け出した。彼女達が見えなくなる遠くまで。走った先に薄い黄緑色の丘を見つけた。ひとまずそこに座り込んで、私は悪くない、とつぶやいた。

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