第2話 姿勢
「おはよう、蓮」
今日は遥の方が先に道場へ来ていた。彼に報告したかったという想いが、大きかったからかもしれない。
「蓮、私……弓道部に入ったよ」
蓮は思わず遥を抱きしめていた。
「よかった……」
彼は絞り出したかのような小さな声で口にしていた。
「遥の射が見れるように、俺も頑張るからな……」
同じ場所にまた行けるように……。
私も蓮と同じ気持ち……。
「うん……」
遥がひと言だけ応えると、いつものように練習を始めていく。
蓮と遥は交互に一本ずつ、試合さながらのように弓を引いていた。
二人が小学生の頃は、これで先に的から外した方が飲み物を買ってくると、いうようにゲーム感覚で練習をしていたのだ。
今となっては決勝戦の良い練習になっているが、二人とも滅多に的から外さなくなった為、
「今日は八本中、二人とも六本皆中かー」
「引き分けだね」
「俺は朝練あるけど、遥は? 」
「私の所は基本的に朝練ないみたいだから、もう少しここで練習していくね」
「そっか、気をつけて行けよ?」
そう言って蓮は、遥の頭を軽く撫でると、足早に道場を後にした。
私も蓮の射を見れるように頑張らないと……。
気合いを入れ直し、黙々と弓と向き合っていく遥は、つい数日前まで弓と離れていたとは思えない程の的中率で、矢が的に中っていくのだった。
弓道の道具は長い為、遥は一度弓道場へ寄ってから教室へ行くと決めていた。
道場からは、的に中ったであろうパーンと、いう音が辺りに響いている。
ーー誰の音だろう?
彼女が静かに場内へと入ると、袴姿の陵と翔が正しい所作で弓を引いていた。
これは、女子が集まるのも分かるかも。
……二人とも上手い。
陵は誰にでもフレンドリーで交友関係が広く、翔はクールだけど、そこがいいと言う女子が多いらしい。正反対の二人は高校以前の知り合いなのか、クラスが違っても一緒にいる事が多く、目立つ存在だった為、遥でもすぐに名前を覚えることが出来たのだ。
「おはよう、神山」
声をかけてきたのは翔だった。クールとは言っても、クラスメイトに挨拶はするようだ。
「おはよう白河、松下くん」
「おはよう神山ちゃん、一人?」
「うん。道具置きに来ただけだから、二人は毎朝練習してるの?」
二人は顔を見合わせると、翔が応えていた。
「習慣かな……。中学の時は朝練あったし」
「そうそう、午後練しかないとは思わなかったよな」
「でも、先生に言ったら鍵の管理しっかりすれば、朝は自主練しても構わないって言うから、今日は二人だけど、たまに篠原も来るよ?」
「うん。それに俺の取り巻き女子も来ないから、静かに練習できるし 」
「そうなんだー」
遥は聞き流しているが、二人は遠回しに「遥も朝練に参加しないか?」と、誘っているようだ。しかし彼女には、その曖昧さでは本心は伝わっていない。
伝わっていないのを悟ったのか、ストレートな言葉を翔が口にした。
「神山もよかったら、朝練たまに参加しないか?」
「ーーありがとう……」
遥は少し驚いた表情を浮かべている。誘われるとは思っていなかったのだ。
お昼のチャイムが鳴ると、遥は新しく出来た友人と机を並べ、お昼を食べるのが日課だ。
「ハルちゃんは、弓道部に入ったんだっけ?」
「そうだよー。
「うん。強豪だからレギュラー取れるように頑張りたいところだけどねー。あー、遥がバスケ部じゃなくて残念」
「小百合、また言ってるの?」
「だって、体育の授業であれだけ綺麗なシュート見たらさー。勧誘したくなっちゃうでしょ?」
「それは分かる。背も高いし」
「いやいや。背はあっても私、よく突き指するから無理だよー」
三人は座っていると分からないが、クラスの中の背の順を一番後ろから独占している。加えて知佳と小百合は、中学からバスケ部に所属しており、バスケ部強豪校である清澄高等学校に進学していたのだ。
「翔ー! 行けるかー?」
廊下側から陵の声がすると、翔は弁当の包みを持って教室を出て行った。毎回のことだが、女子が騒いでいる事が遥にも分かった。
「やっぱり目立つねー。白河くんも松下くんもあのルックスだもんねー」
「そういえばあの二人って、弓道部じゃなかったっけ? 松下ファンの子が、部活どうしようか迷ってるの見た事ある」
「うん、二人とも弓道部だよ」
「じゃあ、女子部員多いんじゃない? マネージャーとかはないの?」
「マネージャーは、いないよー。女子も弓を引くからね。体験入部は結構人が来てたかな」
「ん? 入部したの少ないの?」
「体験の時よりはだいぶ減って、男女ともに四人ずつだよ」
遥の言う通り、体験入部時に二十人近くいた一年生は、およそ半分の八人の入部だった。
それでも、ここ数年部員が少なく、団体戦にも出場できない人数だった頃に比べれば、雲泥の差だと上級生は喜んでいた。
「弓道部も試合あるの?」
「例年だと、今月末に地区春季大会があるはずだよ。バスケ部は?」
「バスケ部は今のところ、練習試合が多いかなー。今月末もここで練習試合する事になってるよ」
「二人が試合に出るところ見てみたいな」
「公式試合決まったら教えるから、応援きてよ」
「さすが小百合、かっこいい」
三人は笑い合いながら、残りの休み時間を楽しんでいるのだった。
「遥ー、部活行こう!」
「うん! 千佳ちゃん、小百合ちゃん、ばいばーい! また明日ね」
「うん! ハル、また明日ねー」
「遥も部活、頑張ってね!」
放課後になると、いつものように美樹が遥のクラスまで誘いに来る。遥は友人にいつものように挨拶をすると、二人は一緒に弓道場へと向かった。
そして、またいつものように翔と陵と昇降口で落ち合い、経験者組四人揃って、弓道場の扉を開けるのだった。
四人一緒になるのは、掃除や委員会などの用がなければ、部活に一番乗りしているからだ。
部活の鍵は当番制になっている為、今日は一組の
率先して手を貸したのは遥だった。
「……ちょっといい? 腕あげて、鏡見てて?」
「お願いします」
「手元見て、覚えてね」
「うん」
遥は器用に
「遥は器用だよね。私、自分では着れるけど、人のは着せてあげられないよ」
「着るのは、慣れてるからね」
更衣室でそんなやり取りをしながらも手早く着替えていると、残りの一年生がやって来た。
弓道未経験者は、袴を着る事も初めての人が多い為、遥は姿見の前で多少手助けをしながら、一年生が着替えを終えると、上級生と藤澤がほぼ同時に今日はやって来た。
「今日はまず、二週間後にある東部地区春季大会の出場者を発表します。村田部長、着替える前にいいですか?」
「はい!」
村田が先生の声かけに応え、一枚の用紙を読み上げていく。
「地区春季大会は、県総体個人予選を兼ねた試合なので、経験者は全員参加になります。男子は八射五中以上、女子は四中以上が県大会出場の条件です。大会まであまり時間はありませんが、朝も自主練する人は弓道場を開放しているので、今出来ることをやっていきましょう」
「部長が言ったとおりです。ここ数年、清澄高等学校は部員が集まらず、個人戦にのみ本大会に進めるほどの成績でしたが、今年は稀に見る豊作の年です。高校から始めた方も、来年は同じ舞台に立つのですから、そのつもりで練習していくように」
「はい!」
部員の元気な声が道場内に響くと、全員袴姿に着替え、練習が始まった。
久しぶりに感じる部活の空気に、弦音に、遥の胸は高鳴っているのだった。
「神山ちゃん、明日は自主練来る?」
場内を掃除する中、声をかけてきたのは陵だ。
「いつも何時頃から集まってるの?」
「俺と翔は七時半くらいには大抵来てる。しのっちも練習するだろ?」
「そのつもりだよー」
モップをかけながら元気よく応える美樹は、遥を強い眼差しで見てきたので、彼女も自主練と言う名の朝練に参加する事になったのは言うまでもない。
道場の戸締まりを終えると、一年生の八人だけとなり、校門まで歩きながら話していく。
「松下くんは、あだ名つけるの上手いねー。神山ちゃんなんて初めて言われたけど、美樹ちゃんがしのっちかー」
「俺、しのっちと同じ三組だし。あと、もっちーとも」
急に名前を、呼ばれた
「神山さんも、もっちーとか……名前で呼んでくれると嬉しいなぁー」
「もっちーかぁー。
「ちょっ、神山ちゃん! 俺の作ったあだ名は、あっさり却下かよ?!」
「いやー、陵のつけるあだ名は、たまに本名より長い時あるからなぁー」
「ちょっ、和馬まで! じゃあ、みんな名前で呼び合うからな! 遥!!」
陵のいじられキャラっぷりに七人は顔を見合わせ、笑い合いながら帰っていく。
自転車組、徒歩組、電車組と別れいく中、経験者の四人は駅までの道のりを歩いていた。四人とも電車通学だったのだ。
「チャリか徒歩圏内っていいよなー」
「そうだなー」
陵の羨ましそうな声に翔が相槌を打つ。
「じゃあ、私はこっちだからまた明日ね」
遥だけ電車の方向が反対だった為、駅で別れる事になった。
「うん! 遥、また明日ねー」
「遥、またなー」
「気をつけて帰れよー」
すっかり陵には、名前呼びが定着したようだ。
「美樹ちゃん、陵、翔、また明日ねー」
遥も陵同様、名前で呼んでみる事にしたようだが、彼女に名前を呼ばれ少し緊張した人物がいた事に、まだ誰にも……本人も気づいていないのだった。
「遥、地区大出るんだろ?」
メールでも連絡を受けていた蓮は、嬉しそうな声を上げた。
「うん、蓮の所は中部地区だよね?」
「そう、だから会えるのは本戦だから勝ち残れよ」
県大会予選は、東部、中部、西部の三地区に別れて行われる。条件をクリアすれば本大会に出場可能になるのだ。
「来月頭には団体戦もあるし、遥の射……楽しみにしてるな」
蓮は遥の頭を軽く撫でると、いつものように帰り支度を始めている。
「遥も今日はもう行くのか?」
「うん。私も今日から自主練と言う名の朝練」
「よかったな」
弓道の強豪校である風颯学園高等部では、朝練、夕練と毎日のように弓に触れて過ごす。
昨年まで団体戦にも出場人数が足りないような清澄高等学校で、弓が引ける事に彼は安堵していたのだ。
弓引きにとって、矢を射ることが出来る場所は貴重である。
二人は袴姿から制服姿に着替え、それぞれ学校へと歩いていく。
「遥、一緒に練習できるのは嬉しいけど無理はするなよ」
「うん、蓮もね」
春の朝、まだ肌寒い風が吹く中、二人はそれぞれの今いる場所へ向かって歩き出した。
「おはようございます」
「おはよう」
弓道場には袴姿の翔が立っていた。
「あれ? 一人だけ?」
「陵は七時半ギリが基本だから、そう言うハルは一人?」
「美樹ちゃんは基本五分前集合だから」
二人は話しながらも、弓を引く準備を的確に進めていく。
「ハルと篠原は同じ小学校なんだって?」
「うん…って言っても、美樹ちゃんが転校する小四までだけどね。翔と陵も仲良いよねー」
「俺たちは同じ中学出身だからな」
「そうなんだー」
準備を終えると、二人の間に静寂が訪れ、弓道場には弦音が響いていく。
翔は自分の右隣で矢を射る彼女の姿を、目に焼き付けていた。
「おはようございます!」
元気な声で道場に顔を出した陵に続き、美樹に、上級生の五人と、次の大会に出るメンバーが続々と集まっていく。遥は挨拶を済ませると、矢取りに入っていた。
二人が先程まで弓を引いていた的には、矢がすべて命中している。場内から向かって右手の的は八本中、六本皆中。左手は八本中、一本皆中を決めていたのだ。
「今年は…男子は団体戦も出れる人数になったし、楽しみだな」
二人が
「ハル、行けるか? 」
「今日、掃除当番だから終わったら行くって言っといてー」
「分かった、また後でなー」
軽く手を振る翔に、遥は手を振り返すと机を移動し始めた。
「遥、白河とずいぶん仲良くなったね」
「小百合ちゃん、そうかな? 部活一緒だから、結構みんな名前で呼び合ってるよー」
「男女一緒なんだっけ?」
「うん、練習は一緒だよー。バスケ部は別れてるんだっけ?」
「体育館は一緒だけど、完全に別々の部活だね。男バスのマネージャーは女子がやりたがるし」
「なるほど」
「ハル、サユー、机戻すよー」
「はーい」
二人は友人の声かけに勢いよく応え、手早く片付けると、それぞれ部活へ気持ちを切り替えているのだった。
清澄高等学校弓道部は、午後練のみ毎日あるが、弓が引けるのは放課後の二時間程度。
顧問の先生は弓道経験者だが、基本的な練習は生徒中心に行われている。
部活を終えても弓の引き足りない遥は、毎朝のように通う弓道場へと向かっていた。これも大会に向けての練習の一貫だ。
「蓮は、学校かな……」
彼女は一人、弓道場の明かりをつけ袴姿に着替えると、弽をつけ、弓と矢を構え、弓道の綺麗な所作で矢を射る。午後の練習の成果か、一射目から皆中を出していた。
その後、何射、どの的で弓を引いても、矢が中っていく。心地よい弦音が静かな夜に響いていた。
二十射引き終わると、彼女は携帯電話のバイブ音に気づき、弓を置いた。
五つある的には四本ずつ矢が、中っているのだった。
「はーい、みっちゃん?」
『ハルー、夕飯の時間だぞ? 戸締まりして早く帰って来いよ』
ーーバレてる……。
兄には遥が家の近くの弓道場にいることは、分かっていたのだ。今までに比べ、清澄高等学校での練習量が激変しているからだ。
遥は手早く矢取りをし、道場を片付けると、袴姿のまま自宅への帰路を急ぐのだった。
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