君と歩いた季節

川野りこ

第1話 再会

小さい頃に憧れた。

祖父が矢をる音。

空気を切り裂くような、そこだけ違う凛とした空気が流れているような …そんな弦音つるねだった……。






みつる! なんで教えてくれなかったんだよ!!」

「今は、部長だろ?」

弓道場に慌ただしく入ってきたれんの額を軽く小突くと、道場を出て外で話すようみつるは促した。

「あいつ、言ってなかったのか?」

「何も……メールしても、曖昧な返事しかくれなかったし」

「ハルは…ここでは、もう引かないって……」

「俺は…俺はあいつのしゃが……」

二人が弓道場の裏手で話をしていると、部長を呼ぶ声が場内から聞こえてきた。

「俺は呼ばれてるから戻るけど、蓮はどうする? 今日は自主練だから、行くなら今日しかないぞ?」

「……清澄きよすみ高等学校に行ってくる」

蓮の真っ直ぐな答えに、満は微笑みながらも、二人が会わないで今日を終わればと、どこかで思っていた。



見事に知ってる人がいない。

だから、ここを受験したのもあるけど……。

校庭は部活勧誘の上級生で賑わっている。彼女は入学式を終えたばかりなのだ。

「そこの一年生、バスケ部のマネージャーやりませんかー?」

「いえ、他に入りたい部がありますので……」

本当は彼女に入部したい部活なんてなかったが、断っているうちに、いい返答方法を見つけたようだ。

人が多いなぁー。

今日は、まっすぐ帰ろう……。

そう彼女が思っていると、校舎側から声をかけられていた。

はるか!! 遥だよね?!」

見覚えのない子に戸惑っていると、彼女がすぐに答えをくれた。

「小四まで近くに住んでた美樹みきだよ! 篠原しのはら美樹みき!」

「美樹ちゃん?!」

二人は手を取り合い、五年ぶり近くなる再会を喜び合っている。

「本当、久しぶりだねー! 元気だった?」

「うん! 遥と会えるなんて思ってなかったから、嬉しいー」

美樹の変わらない笑顔に、遥は安心感を覚えていた。

「私、覗いていきたい部活あるんだけど、遥も一緒に行かない? 一人だと緊張しちゃって」

「うん!」

美樹に会うまでは帰るつもりでいた遥も、快く応えている。二人は、校舎から向かって右奥にある建物へ足を運んでいた。

「美樹ちゃん、弓道するの?」

「うん、中学から始めたんだー」

「そうなんだ……」

二人が弓道場に足を踏み入れると、袴姿の先輩であろう男女五人が、部員集めのプラカードを持って準備をしていた。

「もしかして、入部希望の子?」

「はい、篠原美樹です。中学から弓道やってます」

美樹がそう応えると、部員は嬉しそうな声を上げた。

「しかも経験者なんて大歓迎!!」

「もう一人の子は?」

「いえ、私はただの付き添いです」

「えーっ、遥も入ろうよー」

強く勧める美樹に苦笑いをしていると、先生らしき年配の男性が現れた。

「これから勧誘かな? 一年生? 今年はさっそく入部希望者がいるなんて、幸先がいいですね」

「失礼します」

先生に続いて入ってくる男子生徒達に、遥は帰るタイミングを失っていた。

「君達も入部希望者?」

部長らしき女子生徒が質問すると、二人はしっかりとした口調で応えていた。

「はい、松下まつしたりょうです」

白河しらぎかけるです。宜しくお願いします」

挨拶をした白河は、遥を見て微笑んでいる。

ーー誰だろう?

同じクラスの人かな??

そんな事を彼女が思っていると、思い出したと言わんばかりの声が響いた。

はるかって、あの神山こうやまはるか?!」

りょう、うるさい。神山さんも驚いてるだろ?」

「悪い……。ごめん、神山さん。ここで会えるなんて思ってなかったから、よろしく……」

そう言って陵は手を差し出してくるが、遥は戸惑いを隠せないでいた。

私を知ってる人なんて……いないって、思ってたのに……。

こんな時に、おじいちゃんの言葉が浮かぶなんて……。

『変わりたいと思った時が変化の時だ』

遥の動揺ぶりを察知した美樹は、代わりに陵の手を握り返していた。

「私も入部するからよろしくね」

美樹の対応に有難いと感じながらも、遥は弓道場を飛び出していた。

「……今日はここで失礼します!」

「遥?!」

彼女の耳には美樹の呼び止める声も、周囲の勧誘の声もどこか遠くで聞こえているようで、何も届いてはいなかったのだ。

ただ一人の声を除いては……。


「ーー遥……」

彼女の目の前には、弓道の道具を持った背の高い男の子が立っていた。

「……なんで、いるの?」

「なんでは、ないだろ? せっかくハルに会いに来たのに」

遥の瞳に映る彼は優しく微笑んで、彼女を抱き寄せていた。

……私は会いたくなかった。

今の私を見られたくなかった……。

「ーー蓮……目立つから離して」

「遥が俺について来てくれるなら、離す」

強く抱き寄せられ、ビクともしない彼の強さに、遥は頷いて応えてみせるのだった。



「手、離さない?」

「離すと、どっか行きそうだから却下」

遥の提案はあっさりと蓮に却下され、家路を二人手を繋いで歩いていく。

「なぁー……遥も続けるよな?」

「ーー分からない……」

彼女の瞳は、はるか遠くを見ているようで、蓮はそれ以上の事を伝えるのは抑え、違う言葉を口にしていた。

「俺はハルの……遥のしゃが、すきだよ」

蓮の手に熱がこもり、それが彼女にも伝わっていく。

遥は涙目になりながら、頷くことしか出来ないでいた。

「高校……ライバル校になっても、遥の事はずっと応援してるから……たまには、俺の練習に付き合ってくれないか?」

「蓮…私は……」

遥が答えに詰まっていると、蓮は立ち止まり、彼女を引き寄せていた。

「遥、今日の夜……。いつもの弓道場で待ってる……」

そう彼女はふいに耳元で囁かれ、頬を赤らめていると、いつもの声が聞こえてきた。

「おかえり」

「……みつる、俺ってそんなに信用ない?」

「信用はしてるけど、妹のことに関しては別だ」

蓮は、わざと溜息をする仕草を見せると「またな」と、言って駆け出していった。


「……みっちゃんは知ってたの?」

「蓮が、ハルに会いたがってた事?」

「ううん……。何でもない……」

何でもないと言う表情ではなかったが、満はそれ以上の追求はせず、家に入るようにと遥を促すのだった。



蓮は今夜とだけ言ってた……。

遥はメールや電話で時間の確認はせず、数ヶ月前まで通っていた弓道場へ足を運んでいた。彼女の左手には、弓道の道具が握られている。

カンと綺麗な矢をる音が響く。

遥は声をかけるのも忘れ、蓮の皆中かいちゅうする弓の音を聴き入っていた。

『綺麗な所作は、だいたい正しい』

そうおじいちゃんは、よく言ってた。

幼い頃、この道場で三人でよく弓を引いていた事を彼女は想い浮かべていたのだ。

弦音つるねが止むと、蓮は彼女に気づき、場内に入るようにと促した。

遥は弓と矢を準備すると、一呼吸置いて的を正面にし、一礼をしている。摺り足で二歩進み、立ち位置を整える姿は、美しい所作と言えるだろう。

彼女の矢が的にあたった。

的確に的を捉え、皆中かいちゅうすると、心地よい弦音が、静かな夜に響いていく。

数ヶ月ぶりに見る彼女のしゃに、その袴姿に、彼は何度か声をかけそうになっていた。

すべて弓を引き終えると、遥はすーっと、息を吐き出していた。久しぶりに射る矢に、多少なりとも緊張していたのだ。

「遥……おかえり」

色々伝えたいことも、悩んでいることもまだあるけど…弓道がすき……。

……それだけは変わらない。

彼女は素直に応えていた。

「蓮…ただいま……」

月夜に照らされ、遥の目元が輝いて彼の瞳には映っているのだった。




「おはよう」

「おはよう。みっちゃんは今日も朝練?」

「まぁーな。ハルは?」

「私は自主練しに行ってくる」

遥の言葉に驚きながらも、嬉しく思った満は頭を優しく撫で、彼女の背中に小さなエールを送っていた。

「……ハル。もし蓮にあったら、部活にもちゃんと顔出せって、言っといて」

「はーい」

神山家の朝は早い。まだ六時前だというのに、二人とも弓道をする準備を整えている。

遥は袴姿のまま、通い慣れた弓道場へと急いだ。

弓が引きたい!

昨日みたく、弦音が響くような射が!

遥が着くと昨日と同様、袴姿の蓮がいた。

射る前だった為、遥は静かに道場に入り、蓮が弓を引く姿を静かに見つめている。

みっちゃんも綺麗なしゃだけど……蓮の射が、一番すき……。

「遥、おはよう」

「お、おはよう……」

彼の射に見惚れていた遥は、急に話しかけられ、心の声が聞こえたのかと、頬をほんのりと桜色に染めている。

「遥の射見たら、俺は部活の方に顔出してくるよ」

「うん、みっちゃんも顔出せって言ってた」

今度はいつも通りの声色で彼女は応えていた。

一呼吸おいて、矢を射る。最初の一本は、的のギリギリの所にあたった。先程、動揺した名残だろう。

その後、また瞳を閉じ呼吸を整えると、一つも外す事なく的に皆中してみせた。

「すごいな……」

蓮の呟いた言葉は小さく、彼女の耳には届かなかったが、優しい視線だけは遥にも届いているのだった。




「来週中に入部届けは提出して下さいね」

新任の先生が教卓の前に立っている。

遥の机には、未記入の入部届けの用紙が置いてあった。

神山こうやま、弓道部に入らないのか?」

担任のホームルーム中に話しかけてくるのは、隣の席のかけるだ。入学式の出来事には、あの日以来触れていないが、席が隣同士の為、名字を呼び捨てにする程度には親しくなっていた。

白河しらぎは?」

「俺は入部したよ。あと、神山の友達の篠原とりょうも」

「そうなんだ……」

「今日、体験入部あるから神山も参加しないか?」

遥は翔に言われる前に、美樹から散々誘われた後だった為、今日が体験入部の説明会の日だと知ってはいたが、参加するかはまだ迷っていたのだ。

また…あの競争の世界に行くのか……。

明らかに悩んでいるであろう遥の表情を無視するかのように、翔は彼女の右腕を取ると強引に連れ出していた。

「行くぞ?」

「えっ! ちょっ、白河?!」

彼女の声に白河が立ち止まる事はなく、弓道場へ駆け出していく。

道場に着くと、袴姿の美樹が出迎えていた。

「さすが白河くん!」

彼女は、よく遥を連れてきたと言わんばかりの笑みを浮かべている。

「美樹ちゃん……」

「体験だから、入らないくてもいいの……。今の私のしゃを見てくれる?」

彼女の言葉に、遥は素直に頷いて応えていた。


「……結構、人が多いんだね」

場内には袴姿の部員を除いて、二十名近くの新入生が集まっていた。

「女子はほぼ、陵が目当てかもだけどな」

翔の言葉に遥が彼の方へ視線を移すと、確かに制服姿の女子生徒数名に囲まれていた。

遥は口にはしなかったが、納得はしていた。

松下くん目当てと……袴姿がすきって人が、未経験者には多いって事か……。

でも、形はなんであれ……弓道に興味を持って貰える事は、素直に嬉しい。

そんな事を彼女が思っていると、入学式の日に見た袴姿の女子生徒が話し始めた。

「部長の村田むらたです。今日は、少しでも興味を持ってもらう為に、弓道の作法と実際にる所を見て頂きます」

騒がしかった場内に静寂が訪れ、彼女の声がよく通っている。

「まずは……すでに一年生で部員になってくれた経験者の三名と二年生二名が、試合のような形式で弓を引いていくので、よく見て下さい。足は崩して大丈夫ですからね」

彼女のかけ声に足を崩し、拍手が起こると翔が前へやってきた。

一礼をし、摺り足で歩く。翔に続いて、陵、美樹、そして二年生の二人が、順番に弓道の作法通りに的の前に立った。

何気なくやっている所作が、どれだけ難しい事か知っている遥は、彼らの所作を正座のまま見つめている。

翔の矢が見事に的の真ん中にあたると、思わず声を上げる遥がいた。

「よーし」

同時に拍手もしていたが、一人だけしてしまった動作に恥ずかしさを覚えていると、部長が優しく声をかけた。

「今のように団体戦では男女別、大体五人一チームで行います。そして、今のように真ん中に矢を射る事を皆中かいちゅうと言って、皆中した時にだけ拍手をします。『よーし』と言うかけ声は、的に中った時だけ言います。スポーツで言う声援みたいなものですね」

先輩の優しいフォローと説明に遥は会釈をし、五人が四本ずつ射る姿を見ていた。

初めて見る美樹のしゃは、緊張しているのか、弓を引く瞬間少し肩が震えていた。

その為、四射中二本しか的に中ってはいない羽分はわけだったが、遥の心を動かすには十分だったようだ。

ーー懐かしい……。

数ヶ月前までの事なのに、懐かしささえ感じる音。


「それでは、他に経験者の方がいれば一人で弓を引いてもいいですし、初めてでやってみたい人は部員が一人ずつついて、矢を選んだりする所から始めますね」

部長の声かけが終わると、女子生徒の半数近くが、陵と翔の元へ集まっていく。

残った女子生徒と男子生徒で弓道に興味が湧いた新入生は、先輩に指導して貰っていた。

「遥は? 私……遥の射、すきなの」

「美樹ちゃん……。知ってたんだね」

「うん、中一の時にね。友達の試合を見に行って……遥の射を見て始めたんだよ?」

ーー泣きそう……。

美樹ちゃんが…そんな風に思ってくれていたなんて……。

「弓は? 矢は何キロ? ゆがけは??」

彼女の言葉に、遥は自分の鞄から弽を取り出していた。

「弓は並寸でお願いします」


弓道場には六つの的しかない為、順番に矢を四本ずつ射っていく。一つの的は陵達が占領している為、実質五つの的を使っているのだが、的に当たっている矢は、ほとんどない。

遥が使う的に関しては、一つも矢があたっていなかった。

本来なら、二ヶ月程かけて矢を使わずに練習するからである。それくらい初心者に、弓を引く事は難しいのだ。

遥は使い慣れた弽をつけると、いつものように一礼をしてから、所作に入っていく。思わず隣にいた部員と教わっていた一年生が手を止める程、美しい所作だったようだ。

一呼吸おき、まとを見据え、弓を引く。

制服姿にいつもと違う弓と矢。それでも彼女は、的に中っていた。

一射目は皆中とはいかなかったが、弦音と弓返ゆがえりの音が響く。残りの三射は、見事に的の真ん中に中っていた。

彼女から一番遠い的の立ち位置にいた翔は、その姿を見つめていた。

「陵くん?」

「……少し待って」

彼もまた教えていた子にそう告げると、美しい射形しゃけいの持ち主へ視線を移しているのだった。


「……さすが遥!」

思わず声を上げたのは美樹だった。

あんな風に射る事が出来たら……と、思った人が何人いた事だろう。弓を引く部員は勿論の事、陵に興味本位で教わっていた人が、振り向く程の見事な射形だったのだ。

遥が美樹と抱き合っていると、入学式にも見かけた顧問の先生が入ってきていた。

「……今年はいい年になりそうですね。入部希望者は、用紙を私に提出してから帰って下さいね。来週中まで受け付けているので、迷っている人は後日…担任の先生に提出でも構いませんから……」

そう告げた藤澤ふじさわは、いつもの定位置なのか、遥の立ち位置の真後ろにある簡易の椅子に、腰を下ろしている。


四射中った遥は、弓と矢を片付け、弽をいつもの袋に入れてから鞄にしまうと、一枚の用紙を取り出していた。

簡易のテーブルに置いてあるボールペンで、弓道と一年二組 神山こうやまはるかと書くと、藤澤へ手渡していた。

「……神山遥さんですね。よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願い致します」

はっきりとした口調で応え、一礼をする遥がいるのだった。

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