【歴史】土方歳三と沖田総司
劇中でキーパーソンであった土方歳三と沖田総司についてまとめていきたい。ただし、ここで言う沖田総司は平次と同級生の彼ではなく土方歳三と同時期に生きた沖田総司のことである。
土方歳三も沖田総司も幕末期に生きた武士である。どちらも新撰組に属していた。
新撰組の概要は以下のようである。
幕末には政治の中心が京都に移り、様々な藩から尊王攘夷・討幕運動の武士たちが集まったので従来の治安維持組織だけでは防げないと判断した幕府によって新撰組は浪士で構成された。1868年に始まった戊辰戦争では旧幕府軍として戦った。鳥羽伏見の戦いに敗北した後に散り、新撰組トップである局長の近藤勇が捕らえられて斬首刑になった。その後、局長の一つ下の位に当たる副長の土方歳三は戊辰戦争の最後の戦いである箱館戦争で戦死した。新撰組は新政府軍に降伏することとなった。
土方歳三は新撰組の副長であり、近藤勇の右腕として活躍した。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争では負傷した近藤勇に代わって隊の指揮を執ったが、新政府軍に敗れることとなった。幕府軍が大阪から江戸へ撤退し、新撰組は甲斐国に向かうが、甲州勝沼の戦いに敗れた。流山で再起を図ろうとするが、新政府軍に包囲されて近藤勇が投降した。土方歳三は江戸で近藤勇を助けるように懇願するが、実現されずに近藤勇が斬首刑に処された。その後、幕府軍と合流し、江戸城が開城されると江戸を脱出した。宇都宮城の戦いに勝利して宇都宮城を没落させるが、壬生城の戦いに敗れて宇都宮で新政府軍と再戦したときに負傷し、会津に護送されて療養生活を送ることとなった。全快した後は会津の防戦に尽力するが、母成峠の戦いに敗れて会津戦争が激化した。庄内藩に援軍を求めるために向かうが、入城が叶わず仙台藩に向かうこととした。仙台で榎本武揚率いる旧政府軍と土方歳三は合流して奥羽列藩同盟と呼ばれる陸奥藩、出羽藩、越後藩の同盟の軍議に参加するが、同盟が崩壊し、同盟藩が続々と新政府軍に降伏すると蝦夷地に渡った。蝦夷地に上陸後は箱館・五稜郭を占領した。松前城を陥没させ、残兵が江差まで追撃した。土方歳三が蝦夷地に上陸してから5ヶ月と少ししてから新政府軍が蝦夷地に上陸を開始した。土方歳三が戦ったところに関しては勝つことが出来たが、松前口の一方が破られて止むなく五稜郭に帰還した。新政府軍が上陸してから1ヶ月後には新政府軍の箱館総攻撃が開始され、この戦いにより土方歳三は絶命し、新政府軍に敗れた。
沖田総司は新撰組の1番隊組長だった。新撰組の発足当初から参加しているが、体調の悪化により鳥羽伏見の戦いには参戦することが出来なかった。鳥羽伏見の戦いの敗戦後、隊に合流して江戸に向かうが途中で隊から離脱することになった。その後幕府の医師の家に匿われて近藤勇の斬首刑から2ヶ月後に病死した。
◎参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%B7%8F%E5%8F%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84#%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF
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