第27話 しっぽり湯けむり露天風呂 1

 脱衣所でさっと脱いで髪を縛る。

 モカ様は割と私の近くで、脱ぐのに時間がかかりそうな服を脱ぎ始めた。脱衣所でジロジロと他の人を見るのはマナー違反かと思い、私はモカ様に先に入ると声を掛けて、その先で待っているであろう楽園エルドラドへと足を踏み入れた。どのみち、モカ様とはお風呂で一緒になるのだから、急ぐことはない。

 中を見渡してざっと数えただけでも10ほどもあるお風呂に、夜に揺らめくかがり火がとてもマッチしている。お湯の表面にゆらゆらと柔らかく反射するその赤い色は、お湯に溶けてはまた現れて、私をいざなう。

 湯気がお湯の表面からほわりと現れては、風に流されて消える。高層で少し風が強いせいだ。しかし、寒くはない。

 私は掛け湯をしてから、ゆっくりと一番近くの大きな湯船へと足を浸した。


「ふわぁああ~」


 久しぶりのお風呂にため息が出た。

 足先から伝わる暖かさがとても心地よく、そのままするすると全身をお湯へ滑り込ませる。

 魔界は寒くなく、どちらかというと少し暑い。寒くないから、水で体を洗うことも特に苦ではなかった。

 しかしお湯に浸かると、強張っていた何かが体中から出てゆるゆるとお湯に溶けていくように感じた。

 ああ、お風呂って、……最高に気持ちいい。


「ふふっ、どうだシズク」

「モカ様……?」


 お風呂のへりに背を預け、心地よさで呆けていた私に、後ろからモカ様が話しかけてくる。掛け湯の音が聞こえた後、モカ様が近付いてくる足音がヒタリヒタリと聞こえた。

 私は当然のように振り返り、全身の意識を全力でモカ様に向けた。

 そう、今の私はなぜだかよく分からないが眼鏡いらず。お風呂で眼鏡がなくても、色々とよく見えるのだから!!

 これが今までなら、眼鏡がないと見えないのは確実で、この千載一遇のチャンスにも、諦めが勝ってただろう。


(モッ、モカ様のあれやこれやが……!! ついに、み、見え、見え………見え……っ!!)


 ――見えない!!!! 


 湯気が凄い。

 本当に、びっくりするほど全く見えない。首と付く場所で見えるのは、首と手首と足首くらいだ。胸らしきふくらみはうっすらと感じる……。感じる気がするが、私の見たいという心が見せる幻なのかもしれないと思ってしまう程のうっすら感だ。


(えっ、本当になんなのこれ。本当に全く見えないんだけど? さっきまでこんなに湯気モクモクじゃなかったのに。いきなりなんなの?)


 その異様な光景にはっと気づく。 


(まさか、ふしぎなちから? これも、私がこの世界の言葉が分かるのと同様に、ふしぎなちからが働いているの?)


 大事なところは湯気に隠れたまま、長くボリュームのある赤髪をふんわりとお団子に縛ったモカ様は、湯船に浸かった。

 揺らぐお湯の中でモカ様の輪郭がけたその瞬間、その湯気はそれまでが嘘のように消えさったのだった。

 ふ、ふしぎなゆげ……。


(ち、ちくしょおおお!! ふしぎなゆげめぇええええ!!)


 なぜだが後でカダを思いっきりぶん殴りたい気持ちになった。 


「はあ、あったかくて気持ちいいな。我は、この風呂から見上げる空が一番好きなのだ。シズク、お前の世界でも、星は同じように瞬いていたか?」

「……うん、私の元いた世界は夜でも眩しい建物が多くて、こんなに星は見えなかったけど。でも、見えてたよ」

「そうか……。シズクの世界の星空も、見てみたいものだがなぁ」


 確かに見上げれば、空にはもう星が煌めいている。

 分かり易く見つけやすい北斗七星も、オリオン座も、冬の大三角も見当たらない。ここはやはり日本ではないのだと否が応でも気づかされてしまう。淋しいような嬉しいような……そんな複雑な気持ちになった。

 そして思い浮かべた星座が冬の星座ばかりだったことに気付いて、私が轢かれたのは、雪が降って寒い日だったと不意に思い出す。

 そういえばなぜコートは持ってきていないんだろう? 神的な存在にはぎ取られたのだろうか。あのコートのポケットにも、少しお菓子が入っていたのになあ。マジで神許すまじ。

 魔界は寒くないから、持ってきていても布団の代わり等にしていただけかもしれないけれど。

 そして、わけもわからず三週間ほど、森の中で過ごして。モカ様と出逢って、モカ様と魔王城に来て、六魔天将と逢って、ライブを見て殺されかけて……。

 今での生活からは信じられないほど、駆け足で長い一日だった。

 最初に入った大きなお風呂には、ぷかぷかと柚子色の魔物が気持ちよさそうに浮いていた。

 お湯を掬って鼻に近付けると、柑橘系のいい匂いがして、うっとりする。


 ――そういえば、あの私が突き飛ばした男の子は、助かったんだろうか。

 

 多分朝にみかんでも食べてきていたんだろう。突き飛ばした男の子からは柑橘系の匂いがしたから、匂いに引きずられてあの時の事をフラッシュバックのように思い出した。

 スローモーションの世界の中で、確かにあの男の子は私を見ていた。

 向こうの世界に未練はないけれど、あの子の事は気がかりだった。

 助かっていればいいけれど、……彼を突き飛ばした後が思い出せない。そこで私の意識が途切れている。彼をトラックの向こうまで突き飛ばし、助けることができたのか、それとも――助けられなかったのか。 


 助かっていれば、私が死んだ意味もあると言うものだ。

 しかし、現実問題として、あの子の安否を知る方法などありはしない。

  

(忘れよう……。あの子の事は。別の世界にいる私には、もうどうしようもない)


 私は戻らない。

 この世界で、モカ様と生きていくのだから。 


「はぁ……。モカ様、私ずっとこうしていたい」

「そうかそうか、だが他にも色々とある。試したらいい」

「他のも、全部試してもいいの?」

「もちろん、全部浸かってみていいぞ」

「そっか、そうだよね……。うん、全部入っちゃう」


 ここにある、全部のお風呂……入っていいんだ。

 そうすれば……この不安だって憂鬱だって、全部……お湯に溶けていくだろう。


「二人でなに卑猥な会話してるのぉ?」

「えっ?」

「ん?」


 ぼんやりしていた私に、後ろからそう声を掛けてきたのはキュルムだった。

 ふしぎなゆげ越しに陰影だけでも分かる、彼女のそのなまめましい姿態に釘付けになる。本当に、一分の隙もない体つきに、思わず息を飲んでしまう。

 あんなに色々見えていてボディラインだって分かる服を着ていても、服はやはり服。脱いだ時にはまた違う衝撃を受けてしまうものなのだなぁ。

 ただ、モカ様の時よりも少しゆげが薄い気がする。なにか、ゆげの濃淡に基準的なものが存在するのだろうか。


「卑猥ってなにが?」

「だってぇ~。全部試して、全部使って、全部入っちゃうだなんて……」

「お風呂の話に決まってるでしょ!!」


 使ってじゃなくて、浸かって!

 それを一体何の話だと思って聞いていたのか、こっちが逆に聞きたい。いや、聞きたくない。大体分かってしまう自分が嫌だ。

 キュルムは、私の隣に入ってきた。


「なんだぁ。シズクも興味があるのかと思ったのにぃ。あ、でも人でいったらもう年頃だものねえ、興味がないわけじゃないわよね? そうだわぁ、サキュバスクイーンの手ほどき、受けてみるぅ?」


 そうワキワキと手を動かしながら近付いてくるキュルム。

 指の動きはスピード、動きの滑らかさ共にヒトのそれを凌駕している。

 えっ、なにその指。どうなってるの、怖い。


「まずは基本中の基本、じゅ――」

「やめろ!!」


 何を私に教え込む気だ。

 肩を掴んでそれ以上近付けない様に止める。なんとなく手は掴むのを躊躇した。

 キュルムとワチャワチャしているうちに、モカ様は柚子っぽい魔物を追いかけて、湯船の対岸の方へと移動していった。


「あらぁ、知っといて損はないわよぉ? 今はどうやらシズクの気になる人は魔王様だけみたいだけどぉ」

「ゲホッッッ!!」

 

 咳き込む。


「いや、気になるって、そういう……意味じゃ」


 上手く返せず、わたわたする私に、キュルムはにやにやと続ける。


「いやだわぁ、シズク、そういう意味ってどういう意味? あと、おっぱいはC?」

「ぅえっ!?」

 

 ここで、反対に質問し返してくるとか、キュルムの意地悪っぷりの底が見えない。

 あと、さりげなくないけど、なに人の胸のサイズを織り交ぜてきてるの? 当たってるけど。


「え、だからそれは……妹、のような?」

「あらぁ、アタシはてっきり―――」


――ダッパパァーン!!!!


 刹那、水面を打ち付ける豪快な音と共に、湯船に大きな白波が立つ。湯船に浮いていた柚子っぽい魔物は波に乗ってはじき出されてしまった。

 何が落ちてきたのか、私は背中を向いていてよく見えなかった。だが、水音は二つ聴こえたような……。


「――ッ!? なんだ!?」

「魔王様!! 下がってください!!」


 その衝撃の中心を避ける様にモカ様に素早く近付いて引き寄せ、自分の後ろへ下がらせるキュルム。

 こんな時だが、非常事態となると、やっぱりキュルムはちゃんと六魔天将なのだなとほっとした。

 二つの影が、おもむろにお湯の中から立ち上がる。

 大きな影は、ふしぎなゆげに下半身が隠れているものの全裸らしき姿で腰には剣が携えられている。

 そしてその影は、高らかにこう宣言した。


「僕は宇宙!!」

「「「???」」」

 

 いきなり、自己紹介(?)をした彼に、私達三人は、ポカンとしてしまった。宇宙という名前なのだろうか。


 一瞬置いて、頭がフル回転し出す。


(なんで男がここに? 何を言ってるのか分からない上に、なんで全裸に剣だけ持ってるの? 完全にヤバい)


 ふしぎなゆげがなかったら、咄嗟に急所を蹴り上げてしまうところだった。いや、先手必勝で蹴り上げるのが正解だったのかもしれない。


(……覗き?)


 いや、覗きにしてもこんな意味不明な覗き方があるだろうか?

 訝しげな瞳で見つめる私と、そしてそれとは別の感情を含み、驚いた表情で固まるモカ様とキュルム。

 女湯に男が入ってきたのだから、びっくりするのはもちろんだとは思うが、それにしても驚き過ぎのような……?


「げほっ、げほっ。ゆ、勇者様~、勇者様は宇宙って名前じゃないですよ。ソラ様ですよぉ」


 青い宝石の付いた長い杖を持った女の子が、そう言った。全裸で。

 色々とゆげに隠れてはいるけれど、ゆげに隠れているということは逆にそう言うことなのだろう。

 全裸に剣、全裸に杖って、マニアックにも程ってものがある。戦う気があるんだかないんだか……。

 守りを捨てて攻撃に特化ってレベルじゃねえぞ。


「えっ、モカ様……、あの男の子……」

「あ、ああ、勇者だ。なぜ全裸なのかは分からないが」

「……えっ!?」


―――――――――――――――――――

☆魔王城の湯豆知識☆

 とんでもなくモクモクのふしぎなゆげは、ふしぎなちからによるものではなく、魔物の配慮的なアレ。ウンディーネが、蒸気状の保温保湿効果のある吐息を裸の彼女達に纏わせている。ウンディーネの配慮一つで濃淡が決まっている。時々ギリギリの気まぐれもある。

 相手が男の場合には上半身にはふしぎなゆげは纏わりつかない。下半身には万が一がないよう入念にゆげが纏わりつく。

決して映倫の仕業ではない。

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