第1章 2話 旅立ち

 薄っすらと月明かりの残る早朝、メグは小さな鞄をひとつ提げて部屋を出た。

 足早に階段を下りて玄関前を右に曲がり、リビングに向かう。中に入ると暖炉がぱちぱちと音をたてて燃えていた。

「お待たせしました!」

 若草色のケープを急いで羽織りながらそう言うと、暖炉の前のソファーで地図を広げていたヴェルがゆっくり振り返って笑う。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。ほら、後ろを向いて。捻れてる。」

「わ、ほんとだ」

 ヴェルは手元の地図をくるくると仕舞って立ち上がり、メグに歩み寄る。

「夕べはよく眠れた?」

 小さな背中で交差した布地を直しながら問うと、メグは一拍置いて「はい」と頷いた。そう言いながらしきりに目を擦っているのを見なかったことにして、ヴェルは手際よくケープを広げていく。

「それはなにより。よし、出来たよ」

「ありがとうございます!」

 ヴェルが手を離すとメグはその場で回ってみせた。ケープが翻って裾や襟に施された金色の刺繍が暖炉の火に照らされてきらりと光る。

 その時、きゅ、という鳴き声とともにソファーから小さな頭が覗いた。暖炉で身体を温めていた子どものドラゴンはメグの姿をとらえると、翼をぱたぱたと一生懸命羽ばたかせてソファーを飛び立ち、彼女に近寄っていく。

「よかった!元気になったんですね!」

 両手でドラゴンを受け止めて肩に乗せ、指で頭を撫でてやると、ドラゴンは嬉しそうにきゅうきゅう、と鳴いた。

「あ、そうだ。ちょっとごめんね」

 ヴェルがすいと指を振る。すると、その手に白い綺麗なリボンが現れて、それをドラゴンのしっぽに結ぶ。

「わ、かわいい!」

「でしょ。湖に着くまで逸れないおまじない付き。」

 ドラゴンは自分のしっぽを不思議そうに見ている。メグが「よかったね」とまた頭を撫でると、言葉を理解しているのかは分からないが、きゅっと短く鳴いた。





「明日からちょっと旅に出よう」

 昨日の昼過ぎ、温室のドタバタがひと段落した後、メグが渡した手紙を読み終えたヴェルは笑顔でそう言った。

 手紙の差出人は、魔法生物学会と魔法科学会。内容は、3日後に魔法都市で開かれるとある会議に参加してほしい、とのことだった。

 ヴェルは魔法生物学の研究者でもあり、若いながらもその功績から一目置かれている。そのため、今までにも都市で開かれる会議で助言もらいたいと呼び出されることが度々あった。

「でも、ちょっと急過ぎませんか…?」

 手紙の内容を聞いたメグが呟く。確かに、いつもならばもっと余裕をもって知らせが届くはずだ。ヴェルはもう一度手紙を読み直しながら、口を開く。

「最近の学会も忙しそうだからね。こういう事もあるさ。だから、こうしない?」

 さっと封筒に便箋を戻して、ヴェルはにこりと笑って人差し指を立てた。

 彼の提案は、こうだ。

 3日後の会議に向けて魔法都市へ出掛けるついでに、迷子のドラゴンを仲間のところへ返しに行く。メグも一緒に。

「え…!わたしも一緒に行っていいんですか!?」

 メグが驚きと嬉しさで目を輝かせながらヴェルの顔を見た。

「もちろん。さっき一緒にドラゴンを返しに行くって約束したからね。魔法都市の見学も兼ねて、ちょうどいいと思うんだけど…」

「魔法都市、お師匠さまの話を聞いてからずっと行ってみたいと思ってたんです!お願いします!」

 魔法都市。昼も夜も街中に魔法が溢れる、魔法使いの街。

 ヴェルが会議に出掛ける時、メグはいつも留守番だったため、まだ魔法都市に行ったことがない。密かに憧れを募らせていた場所に行くことができるとなれば、わくわくせずにはいられなかった。

「ふふ、そうと決まればさっそく準備しよう!出発は明日の朝。少し寄り道したいから、早く出ようかな。」

「はい!楽しみだなあ…」

 このようにしてヴェルとメグの「ちょっとした旅」が決まったのである。





「忘れものはない?」

「大丈夫です!…たぶん」

 玄関で身支度と持ち物を確認する。そろそろ出発の時間だ。

「と言っても、大抵のものは旅先でも揃うから忘れても平気だよ。」

 ドラゴンを肩に乗せ、鞄の中を念入りに確かめているメグに顔だけ振り返って、ヴェルが玄関のドアを開けた。

 ひんやりとした空気が頬を撫でる。まだ太陽の昇らない庭は、しんと静まりかえっていた。

 外に出ると、ドアを閉めたヴェルが人差し指を鍵穴に向ける。そのまま鍵を回すように手首を返すと、カチャンと鍵が掛かった。

「さあ、行こうか」

 屋敷に背を向けて庭へと歩き出すヴェルを追いかけるようにして、メグも後に続く。コツコツと石畳を踏みながらメグが隣に並んだところで、ヴェルが口を開いた。

「まずはアラベスクに向かうよ。ちょっと寄り道したいところがあるんだ。」

「そうすると、ここからは翼馬車ですか?」

 小都市アラベスクは、メグたちが住む森から3つほど町を過ぎた先にある。魔法都市行きの汽車の始発駅があり、たくさんの人々が行き来する街だ。メグも一度、お使いに行ったことがある。

「うん、翼馬車もいいけど、今日は折角だから…」

 ヴェルはそこまで言いかけてパチンと指を鳴らした。その瞬間、指先に小さな火が灯る。彼はそのまま庭の低木に掛けてあった手持ちランプを手に取ると、指先の火をランプの中に入れた。ランプはオレンジ色の淡い光を放ちながら、2人の足元を照らす。

「メグ、これを空に掲げてみて。」

 ヴェルからランプを受け取り、メグが一歩前に出る。

「えっと、こうですか?」

 暗い空にちらちらと揺れる光を掲げると、ランプの灯が一層明るく周囲を照らし始めた。

「うん、そう。次はゆっくり、深く息を吸って」

 ヴェルに言われたとおりに冷たい朝の空気をゆっくり吸い込む。すると、しんと静まり返っていた庭に、さわさわと心地よい風が吹き始めた。

 ヴェルが空を見上げたまま、呟くように言う。

「そのまま…もうすぐ来るよ」

「来る…?」

 メグが不思議そうに首を傾げるとほぼ同時に、彼女が持っていたランプは手を離れてふわりと空に舞い上がった。

 瞬間、ごおっ、と音を立ててひときわ強い風が吹く。

「わっ」と声を上げて思わずメグは目を瞑った。

 徐々に風が止んで、辺りが静かになっていく。メグが恐る恐る目を開けると、ランプが何かの先に引っかかってゆらゆら揺れていた。

「朝から呼び出して悪いね。」

 メグの後ろでヴェルが言うと、それに応えるようにランプが左右に揺れる。

「お師匠さま、これって…!」

 メグが振り返って目を輝かせる。ヴェルは笑って頷く。

「うん。今日はこの箒で一緒に空を飛んで行こう。」

 ランプの光によって現れた箒は準備体操でもするかのように、その場でくるりと1回転した。ヴェルが目配せをしてその柄を掴み、軽やかに跨ると、そのまま夜空にぐんぐん上昇していく。

 あっという間に小さくなっていくランプの灯を、メグは胸を躍らせながら見上げていた。

 飛行魔法は力の調節が特に難しいため、魔力の安定しないうちは扱うことができない。メグもヴェルから「もう少ししたら」とまだ教えてもらえずにいる。

 ヴェルは左右に大きく旋回したり、上昇や下降を繰り返したりしながら、踊るように星空を飛んだ。ひと通り飛び終えて、ゆっくり庭に降りてくる。

「確認飛行よし。異常も無さそうだね」

 彼が箒の柄や穂先を目で確認しつつ頷くと、柄の先に掛けられたランプがカラン、と揺れた。

「それじゃ、メグは僕の後ろに乗って。君はこっちに。」

「は、はい…!」

 ヴェルは魔法でメグの肩からすい、とドラゴンを引き寄せて肩に乗せると、メグの乗りやすい高さに箒を浮かせて、手を差し伸べる。

 だが、メグはなかなか箒に乗ろうとしなかった。ヴェルが箒に横向きに座り直して、メグに向き合う。

「…怖い?」

 メグの顔を覗き込んで聞くと、彼女は一瞬顔を強張らせて、困ったように笑ってみせた。

「…ほんのちょっとだけ」

 ヴェルが飛んでいるのを見ていた時は、これから自分も空を飛ぶのだと嬉しさと期待でわくわくしていたが、いざ乗ってみるとなると、なんとなく腰が引けてしまう。初めて見たものに初めて触れる時の感覚と似ている。触れたいけれど触れたくないような、不思議な緊張。

 ヴェルはふふ、と笑うと箒からランプを外して手に持ち、穂先の方を照らした。

「そしたら、まずは触ってみようか。穂を軽く撫でてみて。」

「はい…やってみます」

 メグは緊張した面持ちで、そろそろと箒に手を伸ばす。言われた通りに、そっと箒の穂先に指先を下ろしてみた。そのまま手のひら全体をゆっくりと付けてみる。

「どう?」

 ヴェルが聞くと、メグは穂先を触りながら頷いた。

「ふさふさ、してますね」

「思ったより柔らかいでしょ? だから風の抵抗をあんまり受けずにすいすい飛べるんだ。」

 うんうん、と相づちを打ちながらヴェルが笑う。

「じゃあ次は柄を掴んでみよう。優しく、握り込むようにね。」

「はい。」

 箒の穂先から柄の方へ手を移す。さっきよりも怖さは感じなくなっていた。

「優しく、握り込むように…」

 ヴェルの言葉を繰り返しながら、柄に触れたその時、

「よっと」

 ヴェルがメグのもう一方の腕を引いた。

「っうわ!」

 突然引っ張られたメグは体勢を崩して前のめりに転びそうになる。無意識に前に出た足が地面に着く前に、箒が傾いて足と地面の間をくぐった。そのまますとん、とヴェルの隣に身体が下りる。

「ほら、乗れた」

 ヴェルはメグの腕を掴んだまま、いたずらっぽく笑った。

「へ…?」

 瞬時の出来事に目をぱちぱちさせているメグの身体がふわりと浮く。箒の高度を少しずつ上げながら、ヴェルは前に向き直って箒に跨り、掴んでいたメグの腕を自分の腰の辺りに置いた。

「しっかり掴まっててね。じゃないと落ちちゃうかも」

「わわっ!?」

 箒が後ろ側に少し傾く。メグはまた体勢を崩しそうになって、慌ててヴェルの腰にぎゅっとしがみついた。

「あはは、嘘だよ。絶対落としたりしないから安心して!」

「分かりにくい嘘はやめてください!」

 メグのしがみつく力が思いのほか強くて、ヴェルはおかしそうに笑った。

 そうしている間にも、箒は上昇していく。メグは興味本位でそうっと下を見てみた。

「た、高い…!」

 思わず声が出る。足下には屋敷の屋根が見え、その横には隣の森に生えている大きな針葉樹のてっぺんが見えた。

「お、お師匠さま、まだ上がるんですか…?」

 メグが弱々しい声で聞くと、ヴェルが顔だけ振り向いて答える。

「最初だけちょっと高めに飛ぶよ。すぐ慣れるさ。」

「本当ですか……っ!?」

 また箒ががくんと傾く。きゅきゅきゅ、とそれまでヴェルの肩で大人しくしていたドラゴンが驚いたように鳴いて、ヴェルの首にひしとしがみついた。

「ちょっと!お師匠さま…!」

「っと、今のは僕じゃない」

 箒を平行に戻しつつ、苦笑いでヴェルが言った。ぷるぷると震えているドラゴンをあやすように撫でて、やれやれと箒を握り直す。

「こら、あんまり怖がらせないでくれよ。今日が初めてなんだから。」

 ヴェルが箒の柄をとん、と小突くと、ランプが楽しそうに左右に揺れた。

「メグ、大丈夫?」

「びっくりしましたけど、大丈夫です…!」

「良かった。久しぶりに僕以外を乗せて飛ぶのが嬉しいみたいでね…」

 その通りとでも言うように、ランプがまた機嫌よく揺れる。

「あの、安全運転でお願いします…」

 メグはヴェルの腰にしがみついたまま、祈るような声で呟いた。


 

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