〈外伝 Ⅱ 〉或る夜

暗い森の中に立っている。

辺りはしんと静まり返って、物音ひとつしない。まるで耳が聞こえなくなってしまったようだ。急に不安に駆られて、叫んでみる。

「おーい、誰かいませんか」

良かった、音は聞こえるみたいだ。

しかし、返事はない。何度叫んでも森に響くのは自分の声だけだった。

少し歩いてみよう。

そう思ったけれど、歩くには足元が暗すぎる。灯りを作るために手近な小枝を集めて一括りにし、覚えたての着火魔法を唱えて──

「え…?」

────何も起こらない。

「どうして…?」

手順も呪文も間違っていないはずだ。

それなのに魔力が上手く集まらない。

「うそ…」


魔法が、使えない。


他の魔法を試してみても駄目だった。


どうしよう。

このままずっと帰れなかったら。

だれも見つけてくれなかったら。


このまま、またひとりぼっちなの?




「っ!」

勢いよく瞼を開く。

目の前は真っ暗で何も見えない。が、さっきまで意識があったところとは違う場所であることは確かだった。

メグは起き上がって周囲を見渡し、やっとそこが自分の部屋のベッドの上であることを理解した。

「夢……?」

ほっとして額に手を当ててみると、冷や汗をかいていた。細かいことは思い出せないが、とても怖い夢だった気がする。

蝋燭を灯して時計を見ると、12時を少し過ぎたところだった。

「お師匠さま、まだ起きてるかな…」

自分だけでない誰かがいることをちゃんと確かめたくて、部屋を出た。


お師匠さまの部屋はメグの部屋を出て真っ直ぐ廊下を進み、突き当たりを左に曲がった先にある。

明かりの消えた廊下は昼間に通る時よりずっと長く感じた。

持ってきた小さな燭台で足元を照らしながらそろそろと忍び足で廊下の角を曲がると、お師匠さまの部屋の扉が少しだけ開いていた。

中から灯りが漏れている。まだ起きているようだ。

いつものようにノックをしようと思ったけれど、もう「おやすみなさい」を言ったしこんな時間だ。

どうしようか迷って、扉の隙間から中をそっと覗いてみる。


お師匠さまは窓際にいた。

ランプを掲げ、もう片方の手には筒のようなものを持っている。

それと、窓の外には黒い影。

暗くてよく見えないが、目を凝らしてみると鳥の形をしていた。

「夜更けにごめんよ。これを頼めるかな」

そう言ってお師匠さまは筒を影に差し出す。その筒に掛けられた紐には1輪の花が括り付けられていた。

影は脚の爪ようなところでそれを掴むと、すっと闇に消えていった。

その影を見送るお師匠さまの顔を、ランプの光が照らす。


とても寂しそうな顔だった。


窓枠を掴んで、じっと外の闇を見つめている。

初めてだった。

お師匠さまのあんな顔を見たのは。


見てはいけないものを見てしまったような気がして、メグは足早に自分の部屋へ戻る。


あの影は何だったのだろう?

あの筒には何が入っているのだろう?

どうしてこんな時間に?


次々と浮かぶ疑問を振り払うようにして廊下を歩き、部屋にたどり着く。扉を開けて燭台の火を消すと、ベッドに潜り込んだ。


さっきの横顔が脳裏に浮かぶ。

どうしてあんな顔をしていたのだろう。

どうして…


その時 コンコン と扉をノックする音が聞こえた。お師匠さまだ。

「メグ、起きてるの?」

聞き慣れた優しい声だった。

しかしメグはこっそり部屋を覗いてしまったことが後ろめたくて、毛布を被ったままじっと黙っていた。

「入るね」

扉の開く音がして、毛布の中からランプの光が透けて見えた。温かいオレンジ色に少しほっとする。

「眠れないのかい?」

お師匠さまは机の上にランプを置いて、ベッドに腰掛けた。

「物音がしたから…どうかした?」

いつものお師匠さまだ。

「……怖い夢を見ました」

もぞもぞと被っていた毛布から目まで出して、お師匠さまの方を見る。

「なるほどね…」

少し笑ってメグの頭をそっと撫でる。

「じゃあ、本でも読もうか」

お師匠さまは立ち上がって、本棚の前に立った。

「どれにしようかな…」

それをベッドから眺めていたメグは、何か懐かしいものを感じた。胸の奥がじんわりと温かくなる。

「あの、お師匠さま」

「ん?」


「あの魔法、また見せてもらえませんか」


振り返ったお師匠さまは、少しの間きょとんとしていたが、「ああ、あれか」と笑った。

「同じ話しかできないけれど、いいかい?」

「あのお話、好きなんです。お願いします」

お師匠さまは「わかった」と頷いてベッドの脇の椅子に座ると目を瞑った。

胸の前で手を合わせて深く息を吸う。すると、その周りにふわふわと光の粒が舞い始めた。


「《 言の葉に生を、愛し子に安らぎを。》」


お師匠さまが呪文を唱える。その粒は温かい光を放ちながらゆっくりと両手に集まり、一層輝きを増していく。


「《 さあ、はじまり、はじまり…》」


目を開いて合わせた両手をふわりと開くと、光の粒が絵本になった。

「わ…!」

「ふふ、メグは本当にこの魔法が好きだね」

お師匠さまがくすくすと笑う。



ずっと前の、ある日の昼下がり。

昼寝の時間なのになかなか寝付けなくて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

「眠れないのかい?」

囁くような声がして振り返る。廊下に面した個室の入口に青年が立っていた。

何度か園内で見かけたことはあったけれど、面と向かって話すのは初めてだ。銀髪に緑色のローブを羽織った、どこか不思議な雰囲気の人だった。

少し緊張しながらこくりと頷くと、その青年は柔らかく笑ってこう言った。

「じゃあ、本でも読もうか」



そうしてあの日、メグは初めて魔法というものに触れた。

温かくて、安心して、優しかった。

ここに来てしばらく経つけれど、あの時のことは今でもよく覚えている。


お師匠さまが絵本の文字をゆっくりなぞると、文字がするすると宙に浮いて絵になり、命を与えられたように自由に動き出す。

羽ばたく鳥、ちょろちょろとえさを探すリス、風に揺れる花や木に、小さなお屋敷。

メグは頬杖をついてそれに見入る。お師匠さまはまた少し笑って、静かに話し始めた。


あの時と同じ、温かくて安心する、優しい声で。


「むかしむかし、あるところに…」




◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




「…おや」

物語が終盤に差し掛かったとき、メグはすやすやと寝息を立てていた。

途中で何度か欠伸をしていたのは見えたが、いつの間に眠ったのだろう。朗読魔法を使うのは久しぶりで、かなり集中していたから気が付かなかった。

絵本を閉じて椅子から立ち上がる。

うつ伏せのままのメグを枕に寝かせ直して、毛布をかけた。よく眠っている。良かった。

少し癖のある栗色の髪をそっと撫でる。




『この子をお願いね』




「……ビオラ」

ほんの、一瞬。

思わず口にした名にはっと我に返る。

「ん…」

メグが小さく唸って寝返りを打った。また気持ちよさそうに寝息を立て始める。

「……駄目だな、本当に」

苦笑混じりに溜息を吐いて、メグの肩からずれ落ちた毛布を掛け直す。

壁掛け時計に目をやるともう2時を回っていた。明日も朝からやることがあるし、そろそろ寝よう。

ランプの灯りを消して足音を立てないように部屋を出る。


「おやすみ、メグ」



愛し子に、安らぎを。


愛し子に、良き夢を。

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