第3話 元王子殿下、妊娠出産について勉強してもらいます

 し―――ん。

 見事なまでの無音の世界。

 どうした、静まりかえって。

 ノアのアホ面はそれはそれは見ものだった。ぽかんと大口あけて固まり、完全に一時停止ボタン押した状態。

 オスカーは意味が分からず、ノアの様子に首傾げてる。

「どしたの?」

「うーん、予想以上のマヌケ面。へぇ、人間の顎ってこんな開くんだ。どれくらいのものつっこめるか、試してみよう」

「ママそれ、けっこう大きくない? 本は食べ物じゃないよ?」

 めっちゃ分厚い辞典を近づけると、ノアが慌てて正気に戻った。

「ちょっと待ってソフィア、今何しようとしたの?! え、ていうかマジで?」

 お腹を凝視してくる。まだちっとも膨らんでないし、外見上はまったく分からないだろう。

 腰に手をあてて言ってやった。

「嘘ついてどうすんのよ」

「ママ、どういうこと?」

「お腹に赤ちゃんがいるってことよ。順調に行けばあと七か月くらいで生まれるわね」

 ぱあっとオスカーは顔を輝かせた。

「ほんと?! 妹か弟できるの?!」

「そうよー。どっちだったとしてもかわいがってあげてね」

「うんっ! リアム、よかったね! お兄ちゃんになるんだって!」

「ぶー?」

 理解してないリアムは指しゃぶり中。

「俺もかわいがるー!」

 無駄にデカい子供っぽい大人が抱きついてこようとして……ハッと思いとどまり、腰回りに緩く巻きついてきた。

 ふむ、も一度やろうとしたら顔面パンチくらうって気づいたな。

 その動作、予想その1として対策立ててたわ。

「よろしい」

「大事な子供潰さないようにしなきゃ。ほんとは抱き上げてくるくる回るくらいしたいけど」

 予想はしてたその2。どこの漫画の世界だよ。ここも漫画に似た世界だが。

「やったら怒るよ」

「だと思って。それより今すぐ兄上と母上と宰相とTV局に連絡しなきゃ」

「なんでTV局?」

「世界中に知らせないとさ。特別番組組ませて、幸せ詰め込んだ詩と曲で彩って、それからこれまでの変遷を写真・動画で振り返るPV作って……」

「やるな阿呆!」

 何考えてんだ!

 思いっきり張り倒しておいた。

 これは誰もが納得&許すと思う。自分がやられてみろ。軽く死ねる。

 ギャグマンガ風たんこぶこさえた元王子殿下はブツブツと、

「なんでー? うれしいのにー」

「あんたには恥ってもんがないのか! 離婚するよ?!」

「それはやだ。分かった。やめる」

 妄想を現実にするのはやめたものの、ニヤケ面でお腹に頬ずりしてくるのはやめなかった。

「うわぁ……パパ、正直キモイ」

 同感。

「キモイとか言うな。ずっと妄そ……夢みてたんだからな!」

 今、妄想っつったか。

「男の子かなー、女の子かなー。俺はどっちでもいいよ。無事に生まれてきてくれれば、それで十分」

「分かるのはまだまだ先よ」

「ぼく、こんどは妹がいいなぁ。もちろん弟でもかわいがるけど」

 ノアが何か思いついたといったふうに指を弾いた。

「そうだ。女の子だったら、オスカーと結婚させるのどう?」

「へ?」

「何を言い出す」

「血縁上は従兄弟同士で問題ないじゃん。しかも俺と兄さんは半分しか血つながってない。遺伝学的にも平気だろ」

 異母兄弟だもんね。理論上はそうだけど。

「だってー、ソフィア似の娘、嫁にやりたくないー。絶対かわいい。悪い虫がわきまくるに決まってる! 俺が長年どれだけ権力と武力使って害虫駆除してきたと」

「アンタ、裏で何やってた」

 怒るから言ってみろ(怒らないから言ってみろ、じゃない)。

「ん? まず真っ先に宰相に土下座して協力仰いで、父上と母上に『一生のお願い』使って頼み込んで、主だった高官たちに根回しして……」

「うっわ」

 ガチなやつだった。

 本気で裏工作してやがる。

 つーか、仮にも王子が土下座したんか。プライドないのかな、こいつは。

「もういい、聞きたくない。で、ローソクの火消さないならあたしがもみ消すわよ」

「もみ消すって何?!」

 無視して消してやろうとしたら、慌てたノアが吹き消した。


   ☆


 食事も済ませ、お風呂も入れてリラックスタイム。

 ……のはずが、約一名ウザいのがいるおかげでちっともリラックスできない。せめてそのニヤケ面をやめろ。

 うっとうしくて離れようとしたら、「妊婦なんだから大人しくしてなきゃ駄目だよ!」とか言ってソファーに引き戻されるし。妊娠中でもドクターストップがかかってるんじゃなきゃ、適度に動かなきゃいけないっつーの。

 オスカーに至っては完全にあきれからの無視を決め込んだようで、大人しくロボットのデザイン描いてる。どうやら新キャラがそのうち登場しそうだ。

「なぁ。さっき言ってたけど、性別ってまだ分かんないの?」

「早くても五か月くらいから、七か月以降になると分かることが多いとされてるわね。生まれるまではっきりしないこともあるわよ」

「どうやって判断すんの?」

「肉体的っていうか身体的特徴」

 端的に説明。

「あ、なるほど。一目瞭然だな」

「ただしいくらエコーあてても影になってたり、赤ちゃんの向きによってはどうやっても見えないことがある。女の子と思われてたのが、生まれてみたら男の子だった、なんてケースもあったりね」

 たまにある話だ。

「だからまぁ、ベビー用品は男女どっちでも使える黄色系が無難っていう育児系雑誌の記事があったわね。うちはリアムのおさがりがあるから、特にいらない」

「ふーん。俺は男女どっちでもいいよー。どっちもかわいい」

「…………」

 元夫は娘と分かった瞬間冷淡になった。そしてそこからDVが始まる。

 跡継ぎの長男のみを大事にする家で育った元夫にとって、娘=女児は不要なものでしかなかった。それが『当然』だったんだ。

 でも、ノアはそんなこと絶対考えない。

「言ったように、ソフィア似の娘だったら絶対嫁にやらないしー。俺とオスカーとリアムの三人組倒して交換日記から始めてもらう」

「不可能すぎる」

 世界の命運を決める兄弟がタッグ組んだ上に、実はけっこう強いこいつが加勢したら倒せるやついないじゃないか。

 無理ゲーにもほどがある。

「息子だったら、俺そっくりなのと遊ぶの楽しそうじゃね?」

「全力で断る。あんたみたいなのがもう一人いるとか冗談じゃないっ!」

 速攻で決意表明。

 あたしの今世どんだけ大変なのよ!

 いくら子供を育てるのが仕事な保育士やってるっつったって、面倒みきれんわ!

「うんうん、俺がいれば十分か。ソフィアは素直じゃないなぁ」

「本心&死ぬ気で言ってるんだけど?!  曲解するな!」

「してないよー。んー、お腹の中から蹴るの分かるってよく聞くけど、全然分かんないな」

「胎動? 妊婦自身が分かるようになるのは、これも早くて五か月くらいから。人が見てもハッキリ分かるのは七か月くらいからとされてるわ。ほら、これでも読んで勉強しなさい」

 買っといた本をいくつか押しつける。

 育児本はあるけど、妊娠出産に関する本はなかったもんね。

「読む読む。……へぇ、立ちっぱはよくないけど、適度に動くのは必要なのか。歩くとか」

「幸い悪阻なくて、日常生活に支障はないもの。太らないよう、普段レベルは動かなきゃね」

「悪阻か。マンガでよくある、ウッてうめいて流しにつっぷすアレ?」

 この物語はフィクションです(他作品)。

「悪阻の出方は人それぞれよ。なんでもない人もいるし、吐く人、逆にずっと食べてないと気持ち悪い人もいる。食べ悪阻は統計上フライドポテトが多いけど、もちろん他のが食べたくなる人もいるわけで」

「元々肉体が千差万別なんだから、変化もバラバラに決まってるよな」

「そゆこと。中には食べ物じゃないものが食べたくなる異食症を発症するケースもあるんだって。園児のママがそうだったって言ってた」

 砂とか土とか。

「……食えんの?」

「無理無理。医者に相談したって。逆に、気持ち悪くて何も食べられない吐き悪阻もキツイのよ」

「ママは気持ち悪くない?」

 オスカーが心配そうにきいてきた。

「大丈夫よ。ひどいと毎日吐いて、水すら無理、吐くものなくなってもずーっと気持ち悪い→栄養失調と脱水症状で倒れる人もいるわ。腕が上がらないほど衰弱したって、別のママが」

「そうなる前に病院行ったほうがいんじゃね」

「色々あって不可能な家庭もあるでしょ。そのママの場合、あんまりひどかったら点滴おいでって医者に言われてはいたらしいけど、『あんまりひどいってどのレベル?』って分からず我慢してたみたい。素人で初産なら分かんないっての。行っても『この程度で来るな』って言われたらやだしねぇ」

 これくらいまでなったらおいで、とか具体的に言ってほしいわ。

「五日ほぼ飲まず食わず、直近数日は水すら飲めず吐き続け、腕も上がらなくなって。いくらなんでもヤバイ、行ってもいいだろうって電話したら……『明日にして』って回答だったそうよ。ちなみに当時、季節は夏」

「健康な人間でもその状態ならかなりヤバいのに診療拒否? いやいやいや、夏だろ? 脱水症状マジで危険だぞ」

 よねぇ。

「診療時間の五時をわずか一分過ぎてたからだって」

「たかが一分くらい、いいだろうよ。緊急時は対応してやれよ。もしこれが神通始まったとか、大量出血してるとかだったら受け付けるんだろ? それと同じにみてやれよー」 

 必死で電話したのに、心折ることないと思う。

「救急車呼んで、別の病院に搬送してもらってもよかったんじゃね。真面目に脱水症状はナメちゃいけない。毎年それで死者出てる。しかも妊婦だ、119番しても誰も文句言わねーよ」

「真面目で律儀なママさんだから、気絶しても翌日まで我慢したんだって。で、次の日朝一で行ったら、診察した医師に開口一番『何で昨日のうちに来なかった!』って怒られたってさ。かーなり危険な状態だったみたい」

「ええー……」

 ノアとオスカーが眉をひそめた。

「前の日に来るなって言ったのそっちじゃん」

「それひどい」

「ね。これで死んでたら大問題よ。最悪の事態にならず済んでよかったわよね」

 この話を聞いたあたしは、その病院を密かに調査した。複数の医師でやってる町の産科で、ある一人の医師が前からあまり患者の評判がよくなかった。

 診察室に入ってきた直後いきなり怒られた(初対面)、言動のきつさにただでさえ不安定な精神状態をボロボロにされた、診察の仕方も雑な上にろくな説明もない、始終舌打ちしてる、etc……。

 同僚医師たちも知ってはいたものの、医師界じゃそれなりに地位ある人物らしく、注意できなかったらしい。

 ここぞとばかりに宰相の娘の権力使い、対処しといたわ。

「ていうか、産婦人科なんて激混みなのよ。予約制でも3時間待ちとか当たり前。もう患者いなくて閉めるとこだから診察は明日、なら分かるけど、五時過ぎじゃまだまだ患者たくさんいたはずなのよ。もうちょっと早く電話しろよって気持ちも分かるし、時間かかる点滴をやりたくないってのも理解できるけど、緊急事態でしょ。調べたところその日最後の患者が終わったのは八時台だったし。しかもこの病院は普段からこれくらいの時間までかかってた。点滴やっても最後の患者のほうが終わるの遙かに遅いってことくらい、予想がついたはずなのにねぇ」

 腕を持ち上げるのが困難なほど衰弱した妊婦が、このままじゃ死ぬと残る力を振り絞って助け求めたんだよ。

 診てあげたって……。

 そうやって「あと一人」ってやってたら収拾がつかなくなるからと、断る気持ちは分かる。ルールは守らなければ、どこかで線引きしなきゃいけないと拒否したのも分からないでもない。たった一人でも追加されたら、ただでさえ激務なのにもう無理だってことなのかもしれない。理解はできる。

 だけどさ、危険な状態にあった妊婦の診療拒否って、医師としていいのかなぁ。

 翌日泡食って「前日来い」って口走ったってことは、前の日に診なきゃならない容体だったってことよ。自分で認めてるじゃん。

 ノアが首をかしげた。

「もしかして、昔……?」

 察しがいいわね。

 あたしは頬杖ついて、

「……まぁね。他人事とは思えなかった。もう安定期過ぎて後期に入ってた頃……ストレスで体調崩したことあって、さ」

 ストレスが何を指すか理解したノアは顔をしかめた。

「妊娠前も一つ、ちょっとね。とにかくそのお母さんもあたしも、好き好んで具合悪くなったわけじゃない。誰が倒れたいもんか。わざとその時間に体調崩したわけでもないし」

 病院にも悪いなと思ってちゃんと最初に『すみませんけど診てもらえますか』って頼んだ。

 当然のごとく居丈高に要求したんじゃく、「危険を感じて助けを求めた」んだ。

「もちろん病院側の主張も分かるし、医者の気持ちも理解できる。こんな時間に迷惑だこんチクショウって怒りたくなるのも分かる。だけどさ、患者にそれ言って当たっちゃいけないと思うのよ」

 事故や急病で救急搬送された人にもそういう応対するか?って話。

「あー、まぁなぁ。医者側の心情も理解できる。ただ、イライラは本人にぶつけるべきじゃないな。どんな職種だって働いてりゃ、イラつくことなんていくらでもあるさ。だけど部下や周りに当たったりせず、人に迷惑かけない形で消化するもんだ。医者が患者にやるのはまずいよ」

「傷つくだけじゃなく、医者不信に陥るからね……」

 前世での話だ。子宮頚がん検査の約一週間後、大量出血したことがある。夜中起きたら、布団が一面血まみれだった。

 一枚全部に広がる血。素人が見ても「大量出血」と分かるレベル。

 深夜のためかかりつけ医はやっておらず、#7119に電話して診てくれる病院を探した。救急車は出払ってる、自力で各病院に電話して問い合わせ、行くように言われた。

 どうにか一軒渋々ながら受けれくれるところを見つけ、次はタクシー探し。元夫は運転ができなかった。車で行くときはあたしに送ってもらうのが当たり前と思ってた。タダで使える運転手って扱いだったんだね。

 繰り返すけど時刻は深夜。いくつもタクシー会社をあたり、やっと事情が事情だからと一台回してくれたところがあった。

 なんとか着くと、不機嫌な看護師に待つよう言われ。やがて診察室に足音も荒く入ってきたのは怒り狂った当直医だった。

 開口一番が怒声である。

 急患がやっと終わって寝てたとこだったのに、とか、激務が続いてて疲れが極限超えてたとか、きっと何らかの事情があったんだろう。

 本当に申し訳ないと思い、まず詫びた。そしてこちらも好きでこんな時間になったわけでも、わざと出血したんじゃないことも説明した。その上で診てほしいと頼んだ。

 それに対する反応は、舌打ちと怒声の繰り返し。

 さすがに治療はしてくれたものの、それは麻酔なしで縫うというものだった。

 ……激痛と、自分の体内を針と糸が通っていくのが明確に分かる恐怖はどんなものだと思う?

 ねえ。あなたがもしやられたら、耐えられる?

 しかもその間中ずっと怒られどおしだ。舌打ちも何度もされた。

 パニックと痛みで身じろぎしたあたしを、医師はさらに怒鳴りつけた。

 いっそ気絶できれば楽だったんだろう。そしたらそしたで、起こすのめんどくさいと怒られたんだろうけどね。

 縫っただけで他の診察は一切ナシ、終わってすぐに帰るよう言われた。輸血したほうがいいか調べることも、薬もなく。医師はただひたすらずっと怒っていた。

 その時の医師は女性で、四十代くらいだった。

 彼女は自分が同じ立場で同じように体内を針と糸が通る感触と激痛を経験したら、どうするんだろうなぁ。

 この一件は完全にあたしのトラウマとなり、医師不信に陥った。

 これでトラウマにならない人間がいるだろうか。

 ……今でも思い出すだけで震えがくる。

 目を閉じ、記憶を深い暗闇の底にうずめた。

「ソフィア」

 優しい声が降ってきた。

 ノアがあたしを引き寄せ、もたれかからせる。

「もう大丈夫だよ」

「…………」

 静かに目を開ける。

 ……そうね。

 ―――ホッとするなぁ。

 誰かに寄りかかることのできなかった、前の人生。

 本当はずっと辛い時こうして頼れる人がほしかった。

「……ありがと」

 ぽつりとつぶやけば、ノアはうれしそうに微笑んでた。

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