5. 骨董
「オレたちの現状、か」
桜色の唇を指先でなぞりながら、アイリーンが呟いた。
「状況が特殊だから何とも言えないが、考えられる可能性は、せいぜい二つぐらいのものだろう、と俺は思っている」
「OK, 言ってみな。オレ様が聞いてやるぜ」
「抜かせ」
どうやらアイリーンも、『アンドレイ』の調子が戻ってきたらしい。結構なことだ、と笑いながら、ケイは指を一本立てた。
「まあ、そこまで大したものじゃない。まずは一つ、『俺たちは依然として【DEMONDAL】をプレイ中である』」
次に二本目、
「そして二つ、『俺たちは何故かゲームの中から飛び出していて、ここはどこか別の場所である』」
「まあ、妥当なとこだな」
「平凡だろ? だが俺の想像力では、これが限界だ」
「そうなのか? ふふん、ケイ、オレには『三つ目』があるぜ」
「ほう、お聞かせ願おうか」
アイリーンはドヤ顔で指を三本立て、
「三つ目。『オレは【DEMONDAL】をプレイ中に寝落ちしていて、実はこれは夢である』」
「……、なるほど。あり得るな、存外まともなアイディアだ」
「存外ってなんだオイ」
ケイはふむふむと頷いた。アイリーンが心外そうにしているがそこは気にしない。
夢オチ、という可能性。
焚き火の光と、その炎の暖かさを直に感じていると、「これほどリアルな夢があるのか?」とは思わないでもない。
しかし――自分が挙げた最初の二つに比べれば、よほど現実味のある話だ。
夢なのかどうか。
それを確かめるために、ケイはひとつ、古典的な方法に頼ることにした。
「ぬんッ」
「……。なにやってんだよ」
「
全力で。高
「……うむ。めっちゃ痛い。だが目は覚めない。従ってこれは夢ではない。
しばらく抓って真っ赤になった右頬から手を離し、真面目くさった表情のまま言う。
「……。少なくとも
呆れ顔でそれを見届けたアイリーンは、「夢オチなら気が楽だったんだがなぁ」と残念そうにしながら、腰の帯から投げナイフを一本抜き取った。
「おい、ナイフ使うのか?」
それを見て、驚きの声を上げたのはケイだ。まるで注射でもするかのような気軽さで、アイリーンは左腕の袖をまくり始めていた。
「まあな。オレ、……夢の中で何回か、痛い思いはしたことあるけど、結局最後まで目は覚めなかった。どうせやるなら、これくらいは思い切らないとダメだろ」
「いやいやいや、だからと言ってナイフはやりすぎだろう、傷が残ったらどうするんだ。力が不安なら俺が抓ってやるぞ? 痛いぞ?」
「……いや、別にいいよ。遠慮しておく」
鬱血して紫色に腫れ始めているケイの右頬を見て、アイリーンは静かに遠慮した。
「まあそれに、今更傷なんてな……」
小さく呟きながら、左腕の内側に軽くナイフを押し当てようとする。が、
「…………」
「どうした?」
そのまま、腕を凝視して、動かなくなってしまった。
「いや、……なんでもない」
怖気づいた、というわけではないらしい。袖をそっと元に戻したアイリーンは、左手のグローブを外して、躊躇うことなく手の平にナイフの刃を這わせる。
「……ッ」
「……どうだ?」
「メッチャ痛い。血も出てきた」
ぽたり、ぽたりと。
アイリーンの手から、赤い滴が零れ落ちる。
「さてさて、困ったぞケイ。これで夢オチの可能性が完全に消えた」
「まあ、流石に夢じゃあないだろとは、最初から思っていたがな……。というかそれ大丈夫か。お前かなりざっくり
「う、うん……正直思ったより切れた。腕やめといて良かったかもしれない」
アイリーンの手の平の皮膚は、数センチにわたってぱっくりと切れていた。肉にきれいな切れ目が入り、じわじわと血が滲み出る様子は見るからに痛そうだ。
「ちょっと待て、たしか包帯がポーチに……」
「いや、いい。
腰のポシェットに手を伸ばすケイを止めて、アイリーンは岩陰に向かって「チッチッチッ」と舌を鳴らした。
廃墟の、苔生した石造りの壁。柔らかな地面の上に、二頭の馬が寝転がっていた。
ケイの愛馬『ミカヅキ』と、アイリーンの乗騎『サスケ』だ。
アイリーンの舌打ちの音を聞いて、サスケの方が「呼んだ?」と言わんばかりにつぶらな瞳を向けてくる。
アイリーンによると、彼女が草原で目を覚ましたときには、サスケが隣に寝転んでのんびりと草を食んでいたらしい。
気が付けば草原のど真ん中、自分一人と馬一頭。
そんな状態で、ケイの姿も見当たらず、最初はかなり動転したそうだが、そこへミカヅキが颯爽と駆けてきて、ケイが倒れている岩山のそばまで誘導してくれたそうだ。
そういう意味で、ケイもアイリーンもミカヅキに多大な恩があるわけだが、当の本人(?)はクールに決めておりまるで気にする風もない。今もアイリーンには見向きもせずに、もっしゃもっしゃと草を咀嚼していた。
サスケに歩み寄ったアイリーンは、鞍に括り付けたままの革袋から、ハイ・ポーションを一瓶取り出した。
「さーて、どうなるかな、っと。ゲームなら、シュワワッと一瞬で治るんだけど……」
焚き火に戻ってきて平石の上に座り直し、アイリーンが片手で器用にコルクを抜く。
そぉっと、手の平に向けて瓶を傾ける様を、ケイも興味津々に覗きこんだ。
とろみのある水色の液体が垂れて、傷口に触れる。
その瞬間。
ジュゥゥッ!! と鉄板が肉を焼くような音を立てて、一気に傷口が泡立った。
「ヴぉにゃ――ッッ!!!」
奇声を上げてアイリーンが飛び上がる。その手から空中に放り出されたポーションは、ケイが咄嗟にキャッチした。ふたがなかったので、少し中身がこぼれてしまったが。
「ぁ――ッ! ~~~ッッ!!!」
悲鳴を振り絞ったあとは声すら出せず、手を押さえて悶絶するアイリーン。尋常ならざる苦しみっぷりに、「おい、大丈夫か」と歩み寄ったケイは、少し逡巡してから、その背中をゆっくりとさすってやった。
ナイフで手を切ったときより、よほど痛そうに見えるのだが、気のせいだろうか。あの傷口の泡立ち方は、オキシドールでの消毒を彷彿とさせた。ケイが知っているゲーム内のポーションは、傷口に振りかけるとシュワワッと爽やかな音がして、傷が治って終わりだったのだが。
時間にして数十秒。
冷や汗を垂らして、ぜえぜえと喘ぐアイリーンの背中をさすりながら、
「……落ち着いたか?」
「……うん」
「それで、どんな感じだ?」
「ヤバい。ものすごく痛かった」
「それは見れば分かる。俺が聞いてるのは傷の方だ」
「お、おう」
恐る恐る、といった風に、アイリーンが手を広げると。
「治ってる、……けど」
「……。傷は、残るんだな……」
「うん……」
傷口は、ふさがってはいたが、新しい皮膚が白い線のようにくっきりと浮き出て見えていた。
ポーションといえば、傷すら残さずに完治、というイメージだったのだが。
その場になんとも、微妙な空気が流れる。
「……まあ、まあ。まだ手の平で良かったじゃないか。あんまり目立たないし」
「そ、そうだな」
「もう痛くはないんだろ?」
「ああ。ちょっと肉が張る感じはするけど、問題ない。……やっぱりちょっと深く切りすぎちまったか」
左手を握ったり広げたりを繰り返しながら、アイリーンが小さくぼやく。
そんな彼女をよそに、焚き火を挟んだ対面に座り直しながら、ケイは手の中のポーションの瓶を興味深げに観察していた。
「……これ、飲んだらどうなるんだろうな」
「そりゃあ、体力が回復するだろう。……多分」
ケイの呟きに、答えるアイリーンの言葉が尻すぼみになる。
「…………」
「おいやめろ、期待のこもった目で見るな!」
「アイリーン。お前はデキる奴だと、俺は信じている」
「オレはモルモットじゃねえ!」
「チッ」
「『チッ』じゃねえよ! 人体実験はもうごめんだぞ!」
「はぁ。意気地のねえ野郎だな……」
「意地はもう張っただろっ次はテメェのターンだ!」
膝をぺしぺしと叩きながら、ぷんすか怒るアイリーン。なんだかんだ言いつつも「次はケイが体を張るべき」というアイリーンの主張はもっともだったので、
「…………」
「どうだ?」
ポーションを少しだけ口に含み、渋い顔をするケイに、心なしかワクワクした表情でアイリーンが問いかける。
「うむ……そうだな。体力が回復してるかどうかは、正直よく分からない。だが、心なしか体が温まって、手足の冷えが幾分か解消された気はする。あと、石の上に座りっぱなしで痛くなってた尻が、楽になった。ひょっとすると、腰痛や肩こりにも効くのかもしれないな」
「冷え症のジジイのレビューかよ!! そうじゃなくて! いや、それも大事だけど! 味はどうなんだ味は」
「……昔VRショップで試食したリコリス飴に似てるな。あれから甘み成分を抜いて、ミントとショウガをぶち込んだらこんな風味になるんじゃないか? あとちょっと苦い。それに何故か知らんけど炭酸っぽい、口に入れた瞬間シュワワッてなる。とろみのある炭酸ってどうなんだコレ」
「聞くからに不味そうだな」
「ああ。不味い。凄く不味い」
しかも舌の奥の方に、エグい後味がずっと残るタイプの不味さだった。渋い顔のまま、ケイはポーションの瓶にふたをはめ直す。
一方のアイリーンは、「お前も試してみるか?」とケイが話を振ってこないか、戦々恐々と身構えていたのだが、このポーションはそんな風に茶化す気分にもなれないほど不味かった。
「……さて、アイリーン」
ポーションの瓶を弄びながら、ケイはおもむろに口を開く。空気の変化を察したアイリーンは、小さくため息をついた。
「……楽しい
「ああ。残念だがな。そろそろ真剣に考えないとヤバい」
すっかり暗くなってしまった夜空を見上げながら、ケイは真面目な顔を作る。
「アイリーン。ついさっき気付いたんだけどな。ここがどこなのかを考える上で、重要な手掛かりになるものを発見した」
「いつの間に? 何だ、それは」
「あれだ」
アイリーンの問いかけに、ケイは頭上を指し示した。
「【ハスニール】、【ワードナ】、【ニルダ】」
空をなぞるように、指を動かしながら、
「【ドミナ】、【カシナート】、それに【イアリシン】」
それは、何かの名前のようであった。
「……何の話だ?」
小首を傾げるアイリーン。対するケイの答えは、簡潔だった。
「星だよ」
遥か彼方、無数に輝く星々に視線を合わせたまま、ケイは答える。
「星座が……星の配置が、【DEMONDAL】の世界と全く同じなんだ、ここは」
ケイの言葉に、思わずアイリーンは夜空を振り仰ぐ。
しかし、満天の星空を眺めても、それはアイリーンにとってただの『星空』に過ぎず、地球のそれとの違いなどさっぱりわからなかった。
「マジなのか?」
「ああ。あの緑色の星が【ハスニール】、それを中心に構成されるのが"栄えある名剣"座だ。その隣の赤色の星が【ワードナ】、周りを囲むオレンジ色の星々と"神秘の魔除け"座を形作ってる。あの青色の星は【ニルダ】で、一直線に続く星と共に"守護の御杖"座を――」
「ああ分かった分かった、もう結構だ。……でもなんでそんなに詳しいんだ、公式のフォーラムでもwikiでも、星座なんて見たことねえぞ」
気にしたこともなかったから、見逃しただけかもしれねえけど、と言いながらアイリーンは星空に目を凝らす。
「無理もない。隠しクエストで手に入る情報だからな。星座も、その意味も――"占星術"の存在に至っては、知ってる奴は魔術師より少ないだろうな」
「"占星術"? ってかおい、隠しクエストってなんだ」
「"ウルヴァーン"から"ダリヤ平原"を抜けて北に行くと、森があるだろう? その奥に小屋で一人暮らししてる婆さんのNPCがいるんだが、ポーションなり薬草なりで腰痛の治療をしてやると、その礼代わりに教えてもらえるんだよ。実は、イベントやら天候やらは、星と連動してるらしくってな。ゲーム内で俺の天気予報が良く当たってたのは、そういうわけだ」
「なんだって!」
たしかに、ケイの天気予報は良く当たっていた、とアイリーンは振り返る。てっきり風向きや雲の様子から予想しているのだろう、と思っていたのだが、まさか星にその秘密があったとは。
「薄情だぜケイ! なんでオレにも教えてくれなかったんだよ!」
憤るアイリーンに、ケイは心外そうな顔で、
「教えようとしたぞ? でもお前が『興味ない』って断ったんだろうが」
「えっ」
思わずアイリーンは固まった。慌ててそのことを思い出そうとするも、ケイに出会ってからの二年間、占星術に関する話題など全く思い当たる節がない。
「……マジで? 身に覚えがねえんだけど」
「一年ぐらい前だったか。"ウルヴァーン"の酒場で俺が『おいアンドレイ、神秘的な星々の法則に興味はないか? 大いなる宇宙の真理がお前を待っているぞ』って言ったら、『興味ない、そういうのは他を当たれ』って……」
「明らかに誘い方が
毒づきながら、アイリーンがガシガシと髪をかきむしる。
「はぁ。まあいいや。それで?」
「……俺は、」
ケイは、少しばかり躊躇の色を見せたが、
「俺は、ここが【DEMONDAL】の世界なんじゃないか、と思う」
はっきりと、言った。
「……そいつはまた、飛躍したな。つまり何か、ここは【DEMONDAL】にそっくりな、異世界ってわけか?」
「言い換えれば、そういうことだ」
「……。最近のANIMEでそういうやつがあった気がするな。ゲームをやってる最中に、ゲームの中の世界に
「いや。あいにくと、アニメはあんまり詳しくなくてな」
「へっ、ロシア人の方が日本人より詳しいってのも、変な話だな。まあ、いい。それでだ、そんなトリップが実際にあるとなると――トリップしちまってるのは、手前の頭の方じゃないか、ってオレは思うわけだ。告知なしに神アップデートが来ていて、リアリティが劇的に向上、同時に起きたシステム障害でログアウトできない……って考えた方が、よほど現実味があるぜ」
もちろん納得できない部分も多いけどな、と、真摯な表情でアイリーンは言う。ケイの意見に反対する、というよりも、議論のための問題提起。
「それは俺も考えた。だがな、アイリーン。
アイリーンの顔を見据える。
「アイリーン。お前のVR環境は、"External"と"Implant"のどっちを使ってる?」
「えっ? ……そりゃあ、普通に"External"だが」
ケイの唐突な質問に、アイリーンが面食らったかのように答えた。
現在、VR環境機器は、二種類に大別される。
"
外付け式とは文字通り、体の外部から脳と神経系に作用を及ぼし、VR環境を実現するタイプのことだ。外部の機器の組み替え・交換により、機能や性能を自由に調節できるので、拡張性に優れている。
対する埋め込み式は、直接体内に埋め込み、脳神経に作用するタイプのことだ。クローン技術で形成された神経系と、電子機器で構成された機械系。それらのハイブリッドの生体コンピュータであり、肉体に直接埋め込むという仕様から交換が難しく、拡張性に乏しいという欠点がある。
埋め込み式の方が外付け式よりも情報を正確に伝達できる、という利点はあるものの、拡張性の欠如は如何ともしがたく、また部品同士が干渉してしまうため外付け式と埋め込み式は併用ができない。
現在では、性能上の問題から外付け式が一般的であり、埋め込み式を使っていた人間も除去・交換手術を受けて外付け式に切り替えるパターンが多い。
――ごく一部の、例外を除いて。
「俺は、"
ケイは言葉を続ける。
「正確には、"IBMI-TypeP"を使ってる」
「"TypeP"!? マジかよ、VRマシン最初期の骨董品じゃねえか」
「そうさ、骨董品だ。残念ながら、使い続けてる」
「……。ってことは」
「まあ、お前も勘付いてるだろうとは思うが」
ふぅ、と細く息を吐きだした。
「俺は、寝たきりの病人でな。"Fibrodysplasia Ossificans Progressiva"――進行性骨化性線維異形成症。筋肉が骨に変わっちまう奇病だ。発症したのはもう、15年も前か。5年前ぐらいから、体も動かなくなった」
「…………」
圧倒されたように押し黙るアイリーンを前に、しかしケイの述懐は止まらない。
「今の
ケイの表情は、穏やかだった。全てを受け入れた顔。
「……それ以来、ハードもソフトも、継ぎ接ぎみたいに何度か更新して、今までどうにか誤魔化してきた。けど、それも、3年前の更新が最後になった」
「3年前、っていったら……」
「ああ、そうさ。【DEMONDAL】のサービス開始の年だ」
ケイの口の端が、儚い笑みにほころぶ。
「『かつてないほどのリアリティ』、その売り文句に俺は飛び付いた。一日のほぼ全てをVR空間で過ごす俺にとっては、リアリティのある他人との交流こそが、一番求めてやまないものだった。賭けみたいなものだったよ、マシンの更新手術は。家族にも主治医にも、担当の大学教授にも、全員に反対された。俺の体はもうボロボロで、更新手術に耐えられるかどうか、わからなかったんだ。でも俺が、『リアリティがどうしても欲しい、それがないなら、これ以上無為に生きても辛いだけだ』って我儘を言ったら、最後にはみんな折れてくれた」
夢を見るような目つきで、ケイは語る。
「実際、【DEMONDAL】のリアリティは、凄かったよ。草原の風も、風が運んでくる葉擦れの音も、太陽の温かさも。動植物の造形、NPCの挙動、自分の肉体の感覚、目に入ってくるもの、触れられるもの、【DEMONDAL】の全てが、今までのゲームとは比べ物にならないくらい、"リアル"だった。俺の欲していた、ほとんど全てのものが、【DEMONDAL】には揃っていた――でも、それが限界だった」
アイリーンに視線を合わせ、ケイは静かに微笑んだ。
「俺のマシンは、【DEMONDAL】に最適化されてる。オンボロでも、少しの余裕を残して、ゲームがつつがなく動くようにな。でも、それが限界なんだ、アイリーン。例え、どんな神アップデートが来ても、どんな技術革新があっても――」
足元の砂を手ですくい、指の隙間からさらさらと零れ落ちる砂粒に、見惚れる。
「――俺の
絶対に、とケイは言葉を結んだ。
「…………」
アイリーンは、何も言えなかった。
「……とまあ、辛気臭い話になっちまったが、俺の身の上話はどうでもいい。俺が言いたかったのは、
ぐすぐすと涙を零し始めたアイリーンに、ケイが上擦った声を出す。
「べっ、……違っ、泣いてなんか……」
「いや、泣いてるじゃねえか」
顔を手で隠すアイリーンの仕草に、ケイは苦笑いしながら、歩み寄ってぽんぽんとその背中を叩く。
「別にお前が泣くことはない。一昔前なら、俺も泣いてたかもしれない。だが今はVR技術があるからな、別に不幸じゃないさ」
「これ、違っ……違う、ケイに、同情し、てる、わけじゃ……」
「大丈夫だって、良いから良いから」
ぐずるアイリーンの肩を抱いて、赤子をあやすようにその頭を撫でる。なんで俺がこいつを慰めてるんだろうな、と考えると可笑しくて、ケイは忍び笑いを止めることができなかった。
「……いや、悪かった。もう大丈夫だ」
数分とせずに落ち着いたアイリーンが、肩にかかったケイの手を撫でる。もう一度、ぽんぽんとその肩を叩いてから、ケイはアイリーンの対面に座り直した。
「…………」
焚き火越しに目が合うと、アイリーンは恥ずかしそうに顔をそむけ、
「……思う所があったんだ。ケイが可哀そう、とか、そういうことで泣いたんじゃない」
「そうか」
「うん、まあ……そういうことなんだ。だから、気にしないでくれ」
もどかしそうに言うアイリーンに、ケイはくすりと笑みを返す。
「いいさ。話を続けよう」
「おう。それで、提案したいこととか、何とか言ってたよな?」
「大したことじゃないけどな。俺が提案したいのは、『ここが【DEMONDAL】に似た異世界である』と仮定して行動しよう、という、それだけのことさ。もしここがゲーム内で、システム障害でログアウトできないだけなら、数日もすれば解決するだろう。アイリーン、プライベートな質問で悪いが、お前一人暮らしか?」
「いや。家族がいる」
「なら安心だ、娘がいつまで経ってもゲームを止めないとあれば、飯の時間にでもなれば家族がマシンを引っぺがしに来るだろうさ。アニメとは違って、マシンを外そうとした瞬間に脳ミソが爆発、なんてこともないしな」
「おい、お前アニメ詳しくないって嘘だろ?」
「どうだか」
二人でくすくすと笑いあう。
「まあ、そんなわけで、ここがゲームなら慌てる必要はない。が、もしここが『異世界』なら……」
「
「そういうことだ。最悪を想定して動け、というセオリー通りに行こう」
結論を出したところで、ケイはふぅ、と小さくため息をついた。口の中がからからだ。珍しく長口上をぶちまけたせいで、喉が渇いているらしい。
「……アイリーン、水持ってないか」
「水か? サスケの荷袋の中に、水筒があったと思う」
「『備えあれば憂いなし』、だな」
「ソナエ……?」
「いや、こっちの話だ。ちょっと水貰うぞ、喉が渇いた」
立ち上がって、「ぼくの名前呼んだ?」と言わんばかりに小首を傾げるサスケに近寄り、その荷袋の中を漁る。
「それにしても、これからどうする?」
水筒を探すケイに、背後からアイリーンが声をかけた。
「うーむ。どうしたものか」
「いつまでもここで、ってわけにもいかねぇだろ?」
「喉も渇く。尻も痛い。となると、やはり人里を探すしかないか」
「やっぱそうなるよな」
あーあ、と面倒くさそうにアイリーンが声を上げる。
果たして、水筒は荷袋の一番底にあった。ごちゃごちゃと詰まったポーションの瓶を押しのけて、袋から引きずり出す。
(あってよかった)
振って確認するまでもなく、中身は十分に入っているようだ。希少かつそれ以上にクソ不味いポーションで喉の渇きを癒すのは御免だったので、アイリーンが水筒を携帯していたのは僥倖としか言いようがない。
その場に腰を下ろして、焚き火に当たりながら、少しずつ中身を流し込む。
(……やはり、ゲームとは思えないな)
液体が喉を通りぬけていく感覚。VR技術で再現されているとは、とても思えないようなリアルさ。
先ほど、ケイは『異世界であると
だが、正直なところ、ここは異世界だろうと、ケイは半ば確信していた。
――そうであることを望んでいた、とも言うが。
ケイのそばで寝転んでいたミカヅキが、のそりと首を動かして、ケイの膝に頭を載せてきた。どうやら、枕代わりにしようという魂胆らしい。ゲーム時代からミカヅキのAIは
こやつめ、と苦笑しながら、その首筋を撫でてやる。人間よりも高い体温、チクチクと指先を刺激する硬い毛、皮膚の下で脈打つ血潮の流れ――ただ体表に手を当てただけでも、既にこれだけの情報量がある。
これこそが現実。そうでなければ何なのだ、と、もはや感動すら覚えるほどだ。耳の裏をコリコリと掻いてやると、ミカヅキは気持ちよさそうに目を細めた。
(しかし、何でこんなことになったんだか)
再び、水筒で口を湿らせながら、ケイは考える。
(たしか――ここに来る前は)
海辺の町"キテネ"で、朱塗の弓を受け取ったのだ。そして、
(追剥に襲われて、撃退して)
そのあと――。
(そのあと……どうしたんだっけか)
思い出せない。
「アイリーン」
「ん?」
「俺たち、ここに来る前って、何してたんだっけか。"キテネ"から戻ってくる途中、追剥に襲われて、それを返り討ちにしたのまでは憶えてるんだが……」
「……そういえばそうだな。なんで忘れてるんだ」
あごに手を当てて、アイリーンが考え込む。
「……追剥を倒して……それからちょっと進んで……"ウルヴァーンヴァレー"に……」
そのとき同時に、二人ともが思い出した。
「「霧だ!」」
何故忘れていたのか。
そう、ウルヴァーンヴァレーに謎の霧が立ち込めていたのだ。
そして霧の中に揃って突入して――。
それから――
「…………」
それから――。
「……くそっ、思い出せない」
ケイは毒づいた。
何か。
何かがあったのだ。
はっきりと思い出せないが、霧の中で、
「ぶるるっ」
と、短く鼻を鳴らす音に、ケイの思考が遮られる。
「……? どうした、ミカヅキ」
見れば、ミカヅキがいつの間にか半身を起こし、首を巡らせて周囲の様子を窺っていた。その両耳はせわしなく動き、先ほどまでは眠たげだった瞳も今は剣呑に細められている。
ケイは知っていた。この表情、この動き。ここに来る前、ゲームの時代から、ミカヅキのAIに組み込まれていた。
――何かを、警戒する動作。
傍らに置いてあった【竜鱗通し】に、ケイはそっと手を伸ばす。
「……どうかしたか?」
焚き火を見つめていたアイリーンがそれに気付き、不安げな様子を見せる。分からん、とだけ短く答えて、ケイはおもむろに立ち上がった。
「ミカヅキが警戒してる。……獣かな」
仮にこの世界が【DEMONDAL】に準じているのであれば、狼などがいても不思議ではない。それほど深い森ではないので、一人では手に負えないような、凶暴なモンスターは出てこないと信じたいが――。
腰の矢筒のカバーを外しながら、暗闇を見透かそうと目を見開く。炎の明かりの届かぬそこは、常人では知覚の及ばぬ領域。しかし、まばたきほどの間に、ケイの瞳は限界まで瞳孔を開き、即座に環境に適応する。
「…………」
北側の森には、特に異常は見受けられない。時折コウモリや小動物の影が見えるが、それだけだ。
では翻って、木立の向こう、南側の草原はどうか。
夜風に揺れる茂み。――いや、違う、風のせいではない。
何かが、いる。
その瞬間、首筋に焼け付くような感覚が走った。
ほぼ同時、カヒュン、というかすかな音。
考えるより先に体が動いた。咄嗟に身を伏せる。手を伸ばせば届く距離、風を切る音。かつん、と背後の壁に、一本の矢が当たって跳ね返った。
――何者かに矢で射られた
――なぜ攻撃してきたのか
――数は、方向はどちらか
脳裏を駆け巡る思考。が、それを遮るようにして新たな殺気。
弾かれたようにそちらを見やる。鳴り響く微かな音。手練の一撃か。巧妙な"
これは自分を狙ったものではない。
殺気の向かう先、その軌道を辿れば――金髪の、少女。
「アイリーン、避け――」
どすっ、と。肉を打つ、鈍い音。
「……え?」
その呟きは、さも不思議そうに。きょとん、とした表情で、アイリーンは自分の胸を見下ろした。
右胸に――矢が一本、生えていた。
信じられない、という風に。目を見開いて。
こちらを見る。なにが、と。問いかける視線。
「……ぁ」
ぐらりと、その身を傾けた少女は、
「アイリーンッ!」
――糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます