第39話 静かすぎてうるさい


 静かすぎて、うるさい。

 六華はぎゅうぎゅうと額を膝に押し付けながら体をこわばらせる。

 あんなキスをかわしておいてのこの言葉。我ながら強情すぎる返事だと思った。きっと彼も突然の拒絶に戸惑い、あきれたに違いない。


(終わった……んだろうな)


 これだけ言えば、もうなかったことになるだろう。

 ひっそりと思っているだけでいいなんて、自分の考えが甘かったのだ。


「――六華」


 名前を呼ばれる。


「なんですか……?」


 帰れと言われてしまうのだろうか。

 若干やけっぱちになりながら、うつむいたまま答えると、頭上から優しげな声が響く。


「俺が嫌いなのか。迷惑だったらそう言ってくれ」

「っ……」


 そんな言い方はずるい。

 どう考えても嫌いなわけがない。だがそれを素直に口にできたらこんな態度をとってはいない。

 嫌われたくない……。そう思うと同時に、鼻の奥がつんと痛くなる。


(意地悪だな……)


 無言のまま思わず顔を上げると、大河と目が合った。


 怒っているわけでもない。

 あきれているわけでもない。

 ただまっすぐに六華を見つめている。


 彼の瞳の奥にある真意を探ろうと、六華がゆっくりと瞬きすると、なぜか大河はふんわりと笑って、六華の顔を覗き込んできた。


「お前が俺を嫌いじゃないなら、もう少し粘ってみるさ」

「ねばる……?」

「ああ」


 大河は軽くうなずいて、指の腹でそっと六華の頬を撫でる。


「お前が俺に抱かれてもいいと思うくらいまで、口説く」

「だぁっ……!?」


 思わず大きな声が出てしまった。

 落ち込んでいた気持ちも驚きすぎて吹っ飛んだ。

 代わりに羞恥が込みあげてきて、頬が熱を持ち始める。

 そんな様子の六華を見て、大河は手を伸ばし六華の耳を親指と人差し指で挟んだ。

 子どもをいつくしむようにすりっと撫でられて、体がまたビクッと震える。


「耳まで真っ赤だぞ」

「……もうっ!」


 これ以上彼の行動や言動に振り回されていては、心臓がいくつあっても持たない。

 六華はバシッと大河の手を振り払い立ち上がった。


「ずいぶん元気になられたみたいなので、帰りますねっ!」

「……ああ。お前のおかげだよ」

「それはよかったです!」


 もう半ばやけくそだった。

 大河は苦笑して、フンスフンスと鼻を鳴らし、どたばたと大きな足音を立てながら玄関に向かう六華の後をついて歩き、靴を履いている六華にささやいた。


「家まで送れなくてすまないな」


 本当にそう思っているのだろう。どこか気遣いを感じる優しい声だった。

 六華は大河を見上げる。


「お見舞いに来たのは私ですから、久我さんは休んでください。じゃあ失礼します」


 大河にぺこりと頭を下げ部屋を出ると、頬を冷たい風が撫でていく。


 大河の部屋にいたのは、一時間程度だった。

 けれど濃密で濃い一時間だった。


 エレベーターに乗ると、大河の言葉が耳の奥で鮮やかによみがえる。


『お前が俺に抱かれてもいいと思うくらいまで、口説く』


 それは甘美な誘惑だった。

 彼は六華が自分に惹かれていることなどとっくにお見通しだ。それでも逃げようとする六華を、その気にさせてみせると言いのける。

 傲慢なのか、よっぽど自信があるのか。

 それとも楽しんでいるのだろうか。男心どころか、恋心にうとい六華には難しい問題だ。


(六年前、彼を口説いたのは私なのに……)


 それがなぜこんなことになったのか、六華はわからない。

 唇に触れると、まだ大河の感触が残っている気がした。


(そういえば私、彼がどうやって鵺ぬえを倒したのか、聞きに来たんだっけ……)


 けれどこの部屋に来た段階で、そんなことは六華の頭からすっぽり抜けていた。

 ただ、山尾からはそれを理由にして、大河のもとに行かせようとしたような、そんな思惑を感じるのだが――。

 今更戻って尋ねるわけにもいかない。


 そもそも鵺をどうやって倒したか、大河から隠されていたわけでもない。いざ聞いてみれば、なんだそんなことだったのかと、笑ってしまうようなネタ晴らしがあるのかもしれない。


「はぁ……」


 六華は少しばかり疲れていた。

 とにかくこの数日でいろんなことがありすぎた。

 なにからなにまで思い通りにならないせいで焦っていたが、だからと言って答えをすぐに出そうとしても仕方のないことなのかもしれない。


 ことは自分だけの問題ではない。疑問の向こうには他人がいるのだ。


(時間ならまだある……そう、時間だけはあるんだから、ゆっくりでいい)


 だがそれから十日ほどたったある日、変化は唐突にやってきた。


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