第38話 上司と不適切な接触
「よくしてくれたのに、悪かった」
「そ、そんなこと、気にしないでください!」
六華はぶんぶんと首を横に振る。
確かに自分は、山尾に言われてここに来た。
だがもし――様子を見に行けと言われなくても、大河が体調を崩していると聞けば、いてもたってもいられずに、きっとここに来ただろう。
「私こそ、なんていうかそのちょっと……はしゃいでしまったというか……」
「はしゃぐ?」
大河が不思議そうに首をかしげる。
「だからその……久我さんの知らない一面を見られて、ちょっと嬉しかったというか……! 確かに久我さんは短気かもしれないけど、私は全然気にならないというか、むしろもっと知りたいなと思うというか……!」
怒られて喜ぶなんて、ドエムなのでは? と思うが、大河が怒ったり笑ったりしているだけで、とにかくうれしいのである。
おそらく彼のことをなにも知らないままこの六年を過ごしてきたので、彼から与えられるどんな感情も新鮮で、六華の心をじゅうぶんに揺さぶる力になっているのだろう。
「リツ……六華」
「っ……?」
突然名前を呼ばれて、心臓がまたぎゅーっと締め付けられる。
大河は六華が持ったままのお盆を手に取って、そっとキッチンカウンターの上に置くと、ゆっくりと六華の手を取った。
(えっ……)
向き合って両手をつなぐ形になって、六華は固まる。
六華の二十四年の人生で、こんな風に異性と手を握り合ったことはない。
だが大河は目をそらさず、まっすぐに六華を見つめてくる。切れ長で澄んだ黒い瞳は、うっすらと水の膜を張ったように濡れ、美しく輝いていた。
「お前は変な女だな」
大河の親指が、そっと六華の手の甲を撫でる。
「今まで、俺のダメな部分を見て勝手にがっかりする女はいても、嬉しがる女はいなかった」
たったそれだけのことで全身に淡い電流が流れて、六華の心臓がバクバクと跳ね始めて止まらない。
彼の手を振り払うべきなのに、それができない。体に力が入らない。
「お前のことをもっと知りたい」
大河の声が熱を帯び、かすれる。
ゆっくりと頬が傾いて、顔が近づく。
(どどどど、どうしよう……!)
六年前に彼を好きになってからずっと、意識して思い出さないようにしていたとはいえ、心の奥底に大事にしまっていた、たったひとりの男だ。
「いやなら逃げろよ。追いかけないから」
それはもはや甘美な脅迫で、誘惑で――。
頭の隅っこで、ちかちかと危険信号が光っている。
(ああ、だめ……だめだって言わなきゃ……逃げなきゃ……)
六華が緊張で息をのんだ瞬間、大河は甘く、その唇で六華の言葉をふさいでしまっていた。
六華の足があとずさると、大河はその体で六華を押しながら、壁際まで追いつめていく。
気が付けば六華は、すっかり大河の腕の中に収められていた。
両手はふさがれたまま、離れてもまた吸い寄せられるように唇が重なる。
背の高い大河に覆いかぶさるように口づけられると、食べられているような気になるが、冗談抜きで六華は自分という存在がこのまま消えてなくなると感じずにはいられなかった。
「――六華」
長い口づけが終わり、床にひざまずいた大河が、ずるずると崩れ落ちた六華の唇の表面を指でなぞる。
「お前、けっこうかわいいな」
「なっ……」
からかうような口調に、六華はまた顔を赤く染める。
足腰が立たなくなるような情熱的なキスをしておきながら、大河は落ち着いていた。
六華は自分の膝を引き寄せながら、大河を上目遣いでにらむ。
「こういうの……だめだと思います……同じ職場ですよ、私たち……」
逃げられなかった自分がこんなことを言うのは滑稽だが、まだ戻れるはずだ。
(っていうか、私がその気になってしまってはぜったいにダメでしょ……!)
絶対にここで終わらせなければならないと思う六華だが、それを聞いて大河はまた軽く首をかしげる。
「竜宮警備隊は職場恋愛は禁止だっけか?」
「い、いやそんなの聞いたことないし、事務方の女の子と付き合ってる隊士は結構いますけど……」
「ならいいだろ」
「よ……よくないですっ!」
六華は顔を真っ赤にして、そのまま自分の膝におでこをくっつける。
もうまともに顔が見られない。
「私、誰とも恋愛する気ないんです! もうそういうのは私の人生で終わってるんです!」
「――終わってる?」
「そうですっ、私は恋なんかできないんです、する気もないんです! だからこれはなかったことにしてください!」
再会した久我大河のことを、心の中で思うだけならいいと思っていた。過去の恋の記憶と同じように、誰に知らせるわけでもなくひとりで大事にしている分には、罪にならないだろうと思っていた。
だが彼と恋をするというのなら話は別だ。
樹のことを黙っているわけにはいかないし、双葉のこともある。
双葉は本当に命を狙われているのだ。
家族に負担をかけながら竜宮警備隊に入隊したのに、恋をするなんて、自分勝手な真似が許されるはずがない。
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