第36話 ふーふー
六華は手にしていた食材を放り出し、急いで音がしたベッドルームへと走っていく。あけ放たれたドアの中に飛び込むと、大河がベッドに行くまえに力尽きたのか、うつぶせに倒れていた。
背筋がひゅうっと冷たくなったが、躊躇したのは一瞬だ。
「久我さん!」
六華は彼の体を抱き起し顔を覗き込む。
「う……」
顔色があまりよくない。土気色だ。
「術式――筋力展開!」
言霊に乗せると同時に、六華の全身に力がみなぎる。六華は大河を横抱きに抱き上げると、ベッドの上へ移動させた。こういう時は術式を学んでいてよかったと思うが、今はそれどころではない。
「久我さん、私の声は聞こえますかっ?」
六華の呼びかけに、うっすらと大河の目が開く。焦点はあっていないが声は聞こえるようだ。
(よかった……)
六華の肩から力が抜けた。
「大丈夫ですか。救急車呼びますか?」
「――いや……寝てれば治る……」
顔を腕で覆いながら大河が声を振り絞る。
「本当に?」
この人のことだから強がっているのではないか。どうしても疑ってしまう。
「ああ……本当だ……いつものことで……」
大河はうめきながら、ベッドのそばにひざまずいて心配そうに顔を覗き込む六華を見上げた。
「昨日からなにも食べてなくて……それでたぶん……すまん」
「ええっ、昨日から? ちょっと待ってくださいね!」
六華は跳ねるように立ち上がると、冷蔵庫から仕舞ったばかりのゼリー飲料を持ってきて封を切ると彼に差し出す。
「とりあえずこれから飲んでください」
「ああ……」
ゆるゆると大河がゼリー飲料を口にするのを確認して、六華はベッドルームを出てキッチンへと向かう。
自炊をしている様子から、もしかしてと探してみれば一人用の土鍋や米を発見した。
土鍋も調理道具もきっといいものなんだろうな、というのは見ればわかった。
(普段はちゃんとしてるんだろうな……)
六華がきちんと自分や樹、家族のために食事を作るのは、週に二回の非番の時だけだ。
樹が生まれてからは、双葉や悟朗にずっと甘えてばかりだった。
もちろんそのことで双葉や悟朗に苦言を呈されたことは一度もないのだが、一人できちんとした生活を送っている大河のような人を見ると、どうも自分がひどくダメな人間のような気がして、少しばかり気分が落ち込む。
「――って、いやいや、今は私のことなんかどうでもよかった……」
六華はぱちんと両手で頬を叩くと、それから入念に手を洗って米を洗い、土鍋に水を張った。
「久我さん、おかゆ作ったんですけど起きられますか?」
声をかけてベッドルームに入ると、久我大河が片手にゼリー飲料を持ったまま寝落ちしていた。
「寝てる……」
持っていたお盆をベッドサイドの小さなテーブルに置き、飲み終えたゼリー飲料と、あたりに転がっているミネラルウォーターのペットボトルを拾ってごみにまとめた。
ひざまずいて上から大河の顔を覗き込む。
顔色はずいぶんよくなっていた。ゼリー飲料でもカロリーはある。空腹を紛らわす程度の効果はあったのだろう。
(まつげ、長いな……)
たとえ無精ひげが生えていても、この男の根本的な美しさというのはまったく損なわれていない。
想像ではあるけれど、幼いころは女の子のように愛らしかったのではないだろうか。
中学生になっても夏休みに毎日蝉取りに行っていた自分は、ショートカットにショートパンツだったのもあって、長い間男の子に間違えられていた。
(私とは本当に、なにからなにまで正反対って感じ……)
そうやってじっと眺めていると、
「ん……」
大河がみじろぎをして、ゆっくりとまつげを持ち上げる。
「あ……目が覚めたんですね。おかゆ作ったんですよ。よかったら食べませんか?」
六華が声をかけると、
「――やのめ……りっか……」
彼の視線がゆっくりと六華に向けられる。
「なぜフルネームで呼ぶんです?」
六華はふふっと笑うと、おかゆが乗ったテーブルを動かした。
「おかゆ、まだじゅうぶん熱いと思います。どうぞ」
「ん……」
上半身を起こそうとするが、まだ力が入らないようだ。
当然六華は彼の上半身を支えようと腕を伸ばしたのだが、大河がぎゅうっと眉間にしわを寄せて、いやそうな顔をした。手助けされたくないのだろう。
確かに部下に面倒を見られるのが恥ずかしいのかもしれない。
「ただの介護。看病です」
なにかを言われる前にと先制した六華は、大河の体を支えてベッドの縁に座る手伝いをする。そこまですると大河はもうふっきれたのか、「すまない」とつぶやきつつ、土鍋の蓋をそっと開けた。冷蔵庫に入っていた梅干しを添えている。あたたかい湯気と同時にかすかに梅の香りが立ち上がり、大河がほっと息をつく気配がした。
「……いただきます」
木のスプーンでかゆをすくい、慎重に、そっと口に運ぶ。
形のいい唇にスプーンが触れる。その瞬間、
「あつっ……」
大河がビクンと体を震わせたあと、しまったといわんばかりに、もう一方の手で口元を押さえる。
湯気はたっているが作りたてというほどではない。
「久我さん、もしかして猫舌なんですか? めちゃくちゃかわいいですね、フーフーしてあげましょうか」
思いもよらない展開に、冗談が口をついて出てしまった。大河はその瞬間、カッと目を見開いて六華をにらみつける。
「かわいいわけないだろうが、お前は馬鹿か」
「いや、ちょっと面白くてごめんなさい……。あはは……。飲み物を持ってきますね」
六華はベッドルームを出て、にやける頬を引き締めつつキッチンへと向かった。
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