第35話 お宅訪問


(えっ、えらいことになってしまった……!)


 夕方の四時を回ろうかという時間。六華は相談役である山尾の命令で、都内にある大河の住むマンションを下から見上げていた。


(お見舞いが終わったら、そのまま直帰していいって言われたけど)


 正直言って、自分でもどうしたいのかわからない。


(一応、お見舞いっぽい食べ物は持ってきたけど食べられるかな?)


 清涼飲料水に果物、プリン、ヨーグルト、ビタミンや鎮痛剤など、来る途中にドラッグストアで購入していたが、果たして彼がこれを受け取るだろうか。

 六華の本心では大河に会いたいと思っているが、じゃあ彼に会って何をどう話したらいいのかと、まだ決心がつかないでいる。


 大河のマンションは竜宮から車で十分程度の距離にあった。十三階建てのきれいなマンションだ。

 なんとなく彼のイメージ的にものすごい高級マンションに住んでいるのではないかと思っていたのだが、意外にも普通の賃貸のようだ。


「いつまでもここに立っててもしょうがないし……!」


 六華は自分を励ましながら一階エントランスに入り、インターフォンの呼び出しボタンで大河の住む部屋番号を押した。


(出るかな……)


 体調を崩して寝ているのなら出ないかもしれない。

 それならそれでいいと思った六華だが、しばらくしてガチャリと音がした。


『――はい……』


 少しかすれた声だったが間違いなく久我大河の声だった。

 六華は慌ててインターフォンに近づく。


「やっ、矢野目ですっ!」

『……は?』

「矢野目六華です。その、山尾さんに言われてお見舞いに来ました!」

『――』


 無言になったかと思ったら、そのままガチャリと通話が切れる。


「切られた……」


 これは聞かなかったことにしたいという大河の意思表示だろうか。

 そもそも体調を崩して休んでいる上司の部屋に押しかけるというのは、あまりにも常識がない。自分が逆の立場だったらご遠慮してもらいたい事案である。


「やっぱり戻ろうかな……」


 職場に戻れば仕事は山積みだ。やることはたくさんある。

 しょぼんとうなだれると同時に、ウィーンと音を立てて自動ドアが開く。


「あっ!」


 慌てて自動ドアの内側に体を滑り込ませた。


(これは……あがってこいってことでいいんだよね?)


 歓迎してもらえるとは思っていなかったし、追い返されることも視野に入れていたのでとりあえず第一関門は突破したと思ってもいいのではないだろうか。

 六華はすぐ左手にあるエレベーターに乗り込んで、彼の住む部屋の階のボタンを押した。


 大河の部屋は701号室の角部屋だった。インターフォンを押すと今度はすぐにドアが開く。六華の到着を待っていたのだろう。

 六華はそのまま深々と頭を下げつつ、持っていたドラックストアのビニール袋を前に突き出した。


「すみません、急にお伺いして! はいこれお見舞いですではさようなら!」


 相手の返事を聞くまでもなく、持っていた荷物を押し付けるようにしてそのまま立ち去ろうと思ったら、

「おい待て」

 背後から腕をつかまれた。

 振り返ると、白いTシャツにスウェットパンツ姿の大河がどこかあきれた表情で立っている。

 だが、それだけではなかった。


「ひっ……」


 六華の喉が、ひゅっと締まる。


「ひ?」


 大河が不思議そうに少しかしげると同時に、六華は叫んでいた。


「ひげ!」

「は?」


 そう、大河のシャープなあごのラインに、ひげがあった。無精ひげというのだろうか。男っぽいというよりも、どちらかというと端整で美しい顔をしている大河だが、顎のラインにひげが生えていることで妙に色っぽさが増している。


(ひええええええ!)


 カッコいいやらドキドキするやらで今にも倒れこみそうだが、大河はあきれ顔から真顔になって、深いため息をついた。


「ひげって……お前は馬鹿なのか」

「すっ……すみません……」


 確かに我ながら馬鹿すぎる発言だった。

 だが好きな男のオフの姿を見て心が動かない女がいるだろうか。いやいないはずだ。なんとかそれ以上馬鹿にされないように六華は必死に表情を引き締める。


「見舞いに来たんだろ? じゃあ最低限、俺のこと見て行けよ」


 大河は決して強引ではなく、けれど拒めないほどの強さでゆるやかに六華の腕を引いて、マンションの中へと招き入れたのだった。(あとがきにも誤字あり)


 20畳ほどのLDKと隣にベッドルームがある1LDKが大河の暮らしている部屋らしい。壁には作り付けのクローゼットがあるせいか、最低限の家電以外はなにもない部屋だ。


「お、おじゃまします……」


 六華は部屋の中をきょろきょろと見まわしながら、キッチンのカウンターテーブルの上に買ったものを並べる。


「あのこれ、いろいろ買ってきたのでよかったら。冷蔵庫に入れておきますね」


 冷蔵庫を開けると、ほぼ水しか入っていなかった。

 だがよく見れば調味料は充実している。しかもバターは五百グラムで千円もする高級品だ。


(自炊するんだ……そういうふうには見えなかったけど)


 そう考えると、自分は久我大河のことをあれこれと勝手に妄想して、こんな人だと決めつけているようだ。反省もするが、まぁ実際はただ浮かれて何を見ても反応してしまう、ただそれだけなのかもしれない。


「あー……ありがとう。正直家を出るのも面倒だって思ってたから、助かる……」


 大河はカウンターにもたれるようにして立ち、六華がてきぱきとドリンクやデザートを冷蔵庫に仕舞うのを眺めていたが、ふと思い出したように、

「あ、財布……ちょっと待ってくれ」

 と、寝室のほうへと向かっていった。


(そんな高い金額じゃないし、別にいいのに……)


 六華としては見舞いのつもりだし、代金など支払ってもらわなくてもいいと思っているが、大河はそれを許さないだろう。


(おまけに無精ひげまで見せてもらったしね)


 ふふっと笑っていると、バタン!と何かが倒れるような大きな音がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る