第8話 初めてのキス

 せめて拭かせてほしいと言った六華に対して、青年は凛々しい眉を不愉快そうにひそめる。


「……うっとおしい女だ」

「えっ」

「何度も言わせるな。うっとおしいと言っている」


 吐き捨てるように言い放つと、椅子から立ち上がり店を出て行った。


「あっ……」


 六華は茫然と立ち尽くした。

 彼が姿を消してしまった。


 うっとおしいと言われたときは『そんな言い方をしなくても!』と腹が立ったのに、途端に大事な宝物を見失ったような不安が押し寄せてくる。


 一方サラリーマンは青年が去ったことにホッとしたようだ。


「きみ、もういいだろう。あんなやつはほっといてさ……」


 ひと際甘ったるい声を出しながら、六華の肩に背後から手を置いた。

 その瞬間、全身にぞわっと鳥肌が立った。


(気持ち悪い……!)


 本能がはっきりと六華に告げた。

 そうだ。こんな男にいつまでも触れられるなんて自分らしくなかった。


「やめて、触らないで」


 六華はきっぱりとした口調でその手を払いのけると、サラリーマンには一瞥もくれず、青年の背中を追いかけていた。





「待って!」


 すぐにBARを飛び出したおかげで、階下に降りるエレベーターの前で青年を見つけることができた。駆け寄ると青年が振り返る。


「お前……」


 青年は六華を見てあきれたように眉をひそめ、それからため息をついた。


「わざわざ追いかけてくるなんて……。なんなんだよ、いったい……」


 両手をポケットに突っ込んで、青年は目を伏せる。

 口調や態度は明らかに雑なのだが、伏せた目元のまつげが思ったより長く、六華はドキッとした。

 青年はそのまま軽くつま先をけりながら、どこか困ったようにしている。


 迷惑をかけている――。


 それはそうだろう。わけのわからない女に付きまとわれているのだから。

 そう思うと悲しい。

 けれど追いかけた自分が黙っていてはなにも伝わらないはずだ。わからないならわからないなりに、彼にその気持ちを説明したい。

 六華はぎゅっとこぶしを握って、口を開いた。


「そんなこと言われても……わからない」

「は?」


 不思議そうに青年が顔を上げた。


「だから、わからないのっ……!」


 六華はごにょごにょとつぶやいて、青年を見上げた。


 そう、六華だってわからない。

 彼は最初から愛想もなかったし、口も悪いし態度も悪い。

 うっとおしいとまで言われて、悲しいし、不愉快な気持ちはあるのに放っておけない。


「でも……でも、そうせずにはいられなくて……どうしてだろう?」

「――」


 本当に、我ながら馬鹿な問いかけだ。彼に自分の問いに答える義務はない。

 だが青年は六華の言い訳を聞いて肩をすくめた。


「――たまに、おまえみたいな女がいる」

「え?」


 思わぬ返答に、六華は意味がわからず首をかしげる。


「まぁ、それも、俺相手じゃ意味はないんだけどな」


 青年は自嘲するように笑い、そしてエレベーターが近づいてくるボタンを見上げる。


「どういうこと?」


 彼は女性に追いかけられることがたまにあるということだろうか。

 そのぐらいモテるということなのだろうか。

 いや、そもそも恋人がいてもおかしくない。


 恋人がいると考えたら、胸の奥に冷たい風が吹き込むような痛みがあった。


(でも……『俺相手じゃ意味がない』って……なぜ?)


 そんなはずはない。

 思わず六華は手を伸ばし、青年の腕をつかんでいた。


「わ、私は、あなたじゃないと意味がない……」

「っ……?」


 その瞬間、青年は雷に打たれたように体を震わせ、隣に立つ六華の顔を食い入るように見つめた。


「なんだって……?」


 青年の声がかすれている。

 黒い瞳が照明に照らされて、濡れたように輝いていた。


 その輝きは抑えきれない熱をはらんでいて、なぜか六華は今自分が発した言葉を、今日初めて会った彼が、待ち望んでいたのではないか――そんな都合のいい夢を見そうになった。


「だから……私は……あなたが……あなたが、いい」


 六華の声もかすれていた。


 これは告白だ。

 やっと気が付いた。


(今、私は彼に惹かれているんだ……離れたくない、このまま別れたくないって、思ってるんだ……)


 あまりにも突然で理解が追いつかなかったが、ここにきて自分の気持ちにようやく気が付いた。

 自分にこんな大胆な一面があったとは、六華自身も知らないことだった。


 ようやくエレベーターの扉が開く。

 青年は六華を数秒、凝視した後、


「くそっ……」


 そのまま六華の背中に腕を回し体を引き寄せる。


「あっ」


 六華は軽く悲鳴を上げた。

 するとその声を封じるように、青年の腕に力がこもった。

 抵抗は許さない――そんな気配を感じた。

 抱き寄せられただけなのに、体が宙に浮いたような気がする。

 もつれるように抱き合いながら、ふたりで狭いエレベーターの中に飛び込む。

 顔を上げると、視線が絡み合う。


 彼の長めの前髪から除く瞳が、美しいと思った。

 もっと近くで見たい。

 瞬きをするのも惜しい。

 食い入るように見つめていると、背中と後頭部に青年の手が回った。


「こんな風に無防備に近づいて……どうなるかわからないのか……?」


 彼のささやき声は、低く、熱っぽくかすれていた。


 あっと思った瞬間、六華の唇は青年にふさがれていた。


 六華、十八歳。

 初めてのキスは、アルコールの香りがした。

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