第7話 止められない思い
いつもの六華なら――高校三年間で、通学電車で遭遇した痴漢をこれまで何人も警察送りにしてきた六華なら、即座に
微動だにできないまま、男の顔を見上げていた。
(私が、照れてる……? このわけのわからん男に???)
六華は交際経験どころか、人を好きになったことがない。
正直ぽかーんである。
十代の女の子にとって恋愛は一大事だ。
女子高でも進んでいる女の子は他校の男子と付き合っていたし、友人のコイバナだって、何百回と聞いていた。けれど自身が男の子を意識したことは一度もなかった。
友人を紹介したいという友達もいたが六華は誰かと恋をする自分がまったく想像できなかったので、都度お断りしていた。
焦りもなく、そういうものだろうと思っていたのだが、ここにきて自分に見とれているのだろうというナルシスト男の登場に、十八歳の六華は純粋にびっくりしてしまった。
それを男は『肯定』ととってしまったのだろう。
きらきらと輝く六華の瞳に頬を染めつつ薄い唇の端をニヤッと持ち上げると、
「もっと静かなところで話そうか」
と、強引に肩を抱いて店を出ようと歩き始めた。
「い、いや、ちょっと待って……!」
体を引こうとした瞬間、出入り口に一番近いカウンター席に座っていた男性に、ぶつかってしまった。
ガシャン!
ガラスが割れる音がした。
ハッとして振り向くと、グラスが床に落ちて割れているではないか。
ほんの一瞬、店内が静かになったが、アルバイトが慌ててちりとりとほうきをもって駆け寄るのを見て、また喧噪に包まれる。
だが六華はそれどころではなかった。
「あっ……!」
見れば男性の足元が濡れてしまっている。
「ごめんなさい!」
自分がぶつかったせいだ。
六華の顔から血の気が引いた。
慌ててデニムのポケットからハンカチを取り出し近づこうとしたのだが、
「その一杯はぼくがおごろう。マスター、支払いは僕につけくれていいから」
スーツの男は何事もなかったかのようにそう言うと、六華の手首をつかむ。
「さ、行こう」
「ちょっ、ちょっと……!」
六華は慌ててその手を振り払った。
「あのですね――」
さすがにこれ以上、この男に付き合ってなどいられない。
きっぱりと断ろうとしたところで、
「必死だな」
艶のある中低音の声が耳をついた。
その声を聞いた瞬間、六華の背筋がぞくりとした。
少しかすれた声はぶっきらぼうで、けれどどこか甘く六華の胸に響いた。
肩越しに振り返ると、椅子に座ったままこちらを振り返る青年と目が合う。
深いU字に首が開いた白のカットソーに、黒のロングカーディガン。そして同じく黒のスリムパンツをはいている。
年のころは二十歳前後か。
髪が長いのは、おそらく元服――二十歳の成人の儀式前のせいだろう。少し長めの黒髪を後ろで結い上げて銀色のシンプルなかんざしを挿している。さらさらの黒髪が額に落ちて、その間からまっすぐな眉と、つりあがりぎみの切れ長の目がのぞいていた。
鼻筋はすっきりとしていて高く、唇は意志が強そうで、真一文字に結ばれている。
間違いなく美形だが、お世辞にも愛想がいいタイプには見えない。
むしろ他人を寄せ付けない雰囲気をかもしだしていた。
だが六華は、自分の頭のてっぺんに雷が落ちた気がした。
騒がしい店内の音が一瞬でなにも聞こえなくなり、代わりに信じられないくらい、自分の心臓が高鳴っていることに気が付いた。
(え、えっ? なに、なんなの?)
六華はTシャツの上からバクバクと鼓動を打つ自分の胸を押さえる。
こんな気持ちになったのは生れてはじめてだった。コントロール不可能な状況に、六華は戸惑う。
だがどうしても六華は、青年から目が離せなかった。
「――なんだと?」
一方、六華の前で恥をかかされたと感じたサラリーマンは眉を吊り上げる。
「だから、必死だなといったんだ。見苦しいことこの上ない」
青年は唇の端を持ち上げて、軽蔑しきった表情を浮かべる。
わざと怒らせていると思われても仕方ない、そんな空気だった。
「貴様……」
案の定、青年の挑発の言葉にサラリーマンが声を震わせた。
青年の挑発に明らかに剣呑な空気になっている。
(た、大変だ……!)
もとはといえばぶつかった自分が悪いのだ。
青年に目を奪われ、一瞬呆けてしまった自分を恥じる。
「あの」
六華は慌てて間に入ろうとしたのだが、
「女。その男と一緒に失せろ、消えろ、目障りだ」
青年は吐き捨てるように言い放ち、またカウンターへと向き直った。
そのこちらを完全に拒絶する青年の態度が――。
青年のうつむいた白いうなじと広い背中が、なぜかまた六華の心をざわつかせる。
アルコールの一滴も口にしていないのに、六華は酔っていた。
無礼なその男の振る舞いに、声に、眼差しに。
冷静になろうと思っても、
『この男の背中に頬を寄せてみたい』
『両腕でぎゅっと抱きしめてみたい』
そう思う気持ちを止められない。
六華はごくんと息をのみ、勇気を振り絞って声をかけた。
「せめて、足元を拭かせてください。ぶつかったのは私だから」
どうしてもこのまま別れたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。