第6話 あの夜のこと

 この六年間ずっと記憶の底に押し込めていた熱が、堰を切ったように押し寄せてきた。


(嘘……!)


 全身の皮膚が粟立つ。一気に口の中がカラカラになり、足が震えた。


(まさかこんなところで会うなんて!)


 六華は息を飲む。

 自分のことを女と思っていない六華も、かつて一度だけ身を焦がすような恋をしたことがあった――。






 六年前の二月。六華の白い手首にはめられた腕時計の針は、二十二時を指そうとしていた。


「よいっしょ……っと」


 六華は最後のビール瓶のケースをBARのキッチンへと運び入れ、額ににじんだ汗をデニムのポケットから取り出したハンカチでぬぐう。


「お疲れさま、君は女の子なのにびっくりするくらい力持ちなんだね?」


 六華が手早くビール瓶のケースを運び入れる姿を見て、五十代前後の、BARのバーテンダーが目を丸くした。

 確かに、平均身長のごく普通の女の子が、重いケースを軽々と運ぶ姿は少し異質かもしれない。


「重いものを運ぶのって、ちょっとしたコツがあるんですよ」


 六華は笑いながら、スマホでアルバイト先のリカーショップに配達完了のメッセージを送った。


『お疲れ様。また来週よろしく』と返事が来る。これで六華の今日のアルバイトは終了だ。

「ふぅ……」


 夕方からずっと重いケースを運び通しだったので、全身をけだるい疲労感が包んでいる。六華が体をほぐすように首を回していると、


「よかったら一杯飲んでいかないか? ごちそうするよ」


 バーテンダーがにっこりと笑いながら、両手を顔の横に組んでシェイカーを振る真似をする。


「いいんですか?」


 それを聞いて六華の心は踊った。

 仕事は終わった。あとは家に帰って寝るだけだ。


 だが果たして今の自分がこの店にふさわしいだろうか?


 少し不安になった六華は店内をぐるりと見まわした。


 金曜の夜という時間のせいか店内はほぼ満員で、アルバイトや年若いバーテンダーが、忙しそうにグラスを乗せたトレイを持ち、フロアを行き来している。

 竜宮が徒歩圏内にあるこの地域は、都内で最も治安のいい場所だ。東京駅から徒歩十分程度のビルにあるこの店も、カウンター席は十、テーブル席が五つもある大きな店で、みなりのいい客しかいない。


(いかにもお金持ちが集まるところって感じ……)


 竜宮の周りには貴族も多く住む。

 貧乏士族の娘で、Tシャツにデニムパンツ、白いスニーカーという自分は、間違いなく浮いているだろう。

 髪だって、後ろでひとつにまとめていて、女らしさのかけらもない。


(私は場違いかもしれない)


 とはいえ、せっかくのお誘いを断るのも少し寂しい気がしたし、実際のどの渇きはピークだった。


「未成年なので、アルコールは飲めませんけど。かまいませんか?」


 六華は丁寧に尋ねる。

 この時の六華は十八歳で、高校を卒業したばかりのごく普通の少女だった。


「ああ、ではノンアルコールにしよう。ここは私の店だからね。マスターだよ。気にしなくていい。カウンターに座りなさい」


 マスターの勧めで、六華は十席ほどあるカウンターの一番端に腰を下ろすことにした。


「未成年ってことは、大学生かな?」


 カウンターの中に戻ったマスターが、慣れた手つきでフルーツをナイフでむきながら尋ねる。


「いいえ。つい先日、高校を卒業したばかりです」


 六華はふっくらした頬を、両手でつつむようにしてカウンターに両肘をついた。


「道理で、ずいぶん若いなと思った」


 マスターはうんうんとうなずいて目を細める。


 六華は言葉通りほんの数日前、地元の女子高を卒業した。同級生は大学進学を控えてみな浮足立っていたし、さっそく卒業旅行と称して海外へと旅立つ者もいた。

 そんな中、六華がなにをしているかというと、勤労である。

 四月から六華は、術式じゅつしきを専門的に学ぶ専門学校へと進学する予定だった。その学費の足しにするためアルバイトに励んでいたのだ。


 術式というのは、簡単に言ってしまえば人間の体に宿る潜在的な力を増幅させる術のことだ。六華は『火事場の馬鹿力』の出し方を学ぶ学問だと思っている。


 この『日本国』で最も尊い竜の眷属ともなれば、自身の体の中だけでなく、他人や自然の中に眠る力を自由に操れるという。


 六華はあくまでも普通の人間なので、他人や自然に干渉することはできないが、自分の身体能力を伸ばす術式を学んでいると就職に何かと便利と聞いて、六華はその道を選んだのだった。


 そのようなことをマスターに話していると、


「学費を自分で稼ぐなんて、えらいねぇ」


 マスターはひどく感心したようにうんうんとうなずきながら、「さぁ、どうぞ」と、六華の目の前にコースターを敷き、果物と氷をミキサーにかけたジュースを出してくれた。


「わぁ、おいしそう! それにとってもきれい! いただきまーす」


 背の高いグラスが店内の明かりを映して反射する。


 薄いピンク色とオレンジが混じった飲み物は、アルコールではないとわかっていたが、ドキドキした。


(なんだか少し、大人になった気分……!)


 じっとグラスを眺めていた六華は、上半身を起こすと、首の後ろに手を回して、髪留めを外した。


 手の甲で首周りの髪を払うと、髪が空気をはらんで背中で広がった。

 その瞬間、店内にいた複数の男の視線が、いっせいに六華に集まる。

 本人はまったく無自覚だが、ふとした行為でいきなり目の前で花が咲いたような、そんな錯覚を周囲に起こさせる――それが六華なのだ。


 自分では全く気が付いていないが、六華は異性の目を引く容姿をしていた。

 しなやかな体はほどよく引き締まり、手足はすらりと長い。そのくせバストはしっかりと豊かで形もよく、ただのTシャツを着ていてもちっともその魅力を隠せていない。


 本人が少し気にしているくせっ毛も柔らかそうだし、どんな時でも、好奇心でキラキラと輝くはしばみ色の瞳は、思わず近くから覗き込みたくなるような、そんな美しさがあった。

 ただ髪をほどいただけなのだが、それだけで男たちの目を引いたのだ。


 さぁジュースを飲もうと手を伸ばした瞬間、


「隣いいかな?」


 カウンターの隣の席にもたれるように、スーツ姿の男が立っていた。


「えっ?」


 六華はぱちくりとまばたきをする。

 知り合いかと思ったが、顔を見てもまったく心当たりがない。


(知らない人だ……)


 なぜ自分が声をかけられたのか、わからなかった。


 声をかけた男は羽振りの良さを感じさせるスーツを着ていて、年は二十代半ばくらいだろう。整った顔立ちをしていたが、これみよがしにスーツの襟に触れている。どうやら有名企業の社章を見せつけたいらしい。


 自分が断られるとは思っていないそんな雰囲気で、そのまま六華の隣に腰を下ろそうとした。


「ごめんなさい」


 六華は首を振り、男をしっかりと見上げた。


「ひとりでこれを飲んだら帰るので」


 六華はきちんと断ったつもりだったが、男はそんなことでめげなかった。


「いいじゃないか、金曜の夜だよ。女ひとりは寂しいだろう」


 そう言って強引に隣の席に座ってしまった。


 ついさっきまで目の前に立っていたマスターは、ほかの客に呼ばれてしまったらしく、端の席へと移動している。自分で何とかするしかない。


「寂しくはないです」


 なぜひとりが寂しいと決めつけるのだろう。意味が分からない。


 もったいないが、ジュースを飲んでさっさと店を出よう。


 男は六華の気を引こうとぺらぺらと話し始めたが、それを無視してグラスを手に取り、口につけた。

 とろりとした甘い果汁が口いっぱいに広がる。柑橘系のフルーツとイチゴの味がする。一杯いくらするのだろう。


(お姉ちゃんにも飲ませてあげたいなぁ……)


 勤労にいそしむ六華がそんなことを考えた瞬間、むくれた姉――双葉の顔が脳裏をよぎった。


 姉とはここ何日か、冷戦状態にある。

 そもそも双葉は六華を大学に進学させるつもりだったのだ。


『大学に進学しなさい。お姉ちゃんが学費を出します』


 高校三年にもなると、いつもそればかりだった。

 六華は、双葉が行きたくても行けなかった大学に、自分が行く資格があるか、はなはだ疑問だった。結局六華は姉の希望を退けて、術式のための専門学校に進学を決めてしまった。

 当然双葉は怒ったが、父が「無理強いするもんじゃないだろう」と間に入ってくれて、なんとなく、六華の受験問題は収束した。


 だが六華が卒業すると、進学への思いが再燃したらしい。

 浪人して大学受験を目指しなさいと言い始め、言い合いになってしまった。


(早く大人になりたい……)


 四つ年上の姉の負担を一刻も早く減らしたいのが、六華の思いだったが、現実はなかなか難しい。


 苦い思いとともにジュースを飲み干し、六華はハンカチで軽く口元を押さえる。帰るつもりで立ち上がると、無視され続けた男も立ち上がった。


「ちょっと待ちなよ、あんまりつれない態度はどうかと思うよ?」


 そして六華の腕をつかんで、引き寄せる。そして耳元でささやいた。


「もしかして大人の男に声をかけられて、照れてるのかな?」

「――はぁ!?」


 思わず大きな声が出てしまった。


(照れてる? 私が????? 何言ってんだ、こいつー!)

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