第9話 お前みたいな女大嫌いだ。
六華と青年は、エレベーターが一階に降りるまでずっと、唇を重ねていた。
初めてのキス。作法なんか知らない。けれどこれが正解だ、彼とこうなっていることは間違いなんかじゃない。
触れ合う唇から溶けそうになる。
熱に浮かされて。六華の体は物理法則を無視して今にも天高く舞い上がりそうだった。
エレベーターが到着し、扉が開いてから、すぐそばにあるラブホテルに飛び込むまで、五分とかからなかった。
ベッドの上でお互い着ていた服を脱いで、脱がされて、それから溺れるように唇を重ねて、青年は六華をシーツの上に押し倒してうめき声をあげる。
「お前みたいな女、大嫌いだ……殺してやりたいよ……」
押し殺した苦しそうな声でそう言われて、彼の言葉に心臓を打ち抜かれた。
脅しなのか、呪いの言葉なのか。
なぜ彼は、体を重ねようとする相手にこんな言葉を口走るのだろう。
もしかして自分はこの男に本当に殺されてしまうかもしれない。
一瞬だけそんなことを思ったが、それは杞憂に終わった。
「くそっ……」
青年は端整な眉を寄せ、長い指で眉間を押さえる。
ああ、違う。
なにかに苦しんでいるのは、彼のほうだ。
今、目の前で彼を求めている六華を、女代表のような目で見て、なぜか苦しんでいる。
(私はこの人に、殺されたりなんかしない……)
六華は彼の体を抱き留めながら、うめく彼の頬に手のひらを乗せて、目線を合わせる。
大丈夫だよと、彼を安心させてあげたかった。
不安に揺れる青年の目を覗き込み、そしてついばむように口づける。
ここに来るまではずいぶん強引だったくせに、どこかおじけづいたような彼を励ましたかった。
指先で何度も、青年の髪のはえぎわを撫でて、シャープな頬のラインをなぞった。
そんな中、耳の下に、ちいさなほくろが三つ並んでいるのに気が付いた。
(お星様みたい……)
六華はそのまま、彼のかたちのいい後頭部に手をまわすと、黒髪をまとめている銀のかんざしを抜き取り、枕元に置く。
はらはらと黒髪が零れ落ち、六華をシーツと彼の体の間で包み込む。
かわいいほくろが見えなくなって少し残念だったが、指で彼の眉間のしわをなでて、それから目を閉じた。
その瞬間、青年がごくりとのどを鳴らして、顔を六華の首筋にうめる。
(優しくしたい……)
そう思う一方でめちゃくちゃにされたかった。男を知らなくてもわかることがある。
六華も精いっぱい両腕を伸ばし青年の首に腕を回した。
「はやく……」
ささやくと同時に、首筋に青年の唇が押し付けられ、強く抱きしめられる。
優しくしたい。めちゃくちゃにされたい。
どちらも本心だ。
六華の生まれて初めの衝動だった。
結局――お互い名前も、年も、素性も何一つ名乗らなかった。
あの夜、ふたりはただの男と女でしかなかった。
夜明け前、目が覚めたらもう青年の姿はなかったのだ。
シーツにふれると、ほんの少しだけぬくもりがあって、もっと早く目を覚ますべきだったと六華は感じたが、それは彼が望まないことだろうとなんとなく思った。
実際、竜宮近くのBARに通うのなら、貴族であってもおかしくない。
いくら酒に酔っていたとはいえ、貧乏士族の娘に手を出して責任を取れと迫られるのを恐れたのかもしれない。
(でも、私は後悔なんかしていない)
彼を追いかけ、求めたのは自分なのだ。
枕元には多すぎる現金が置かれていて、お金を持たなかった六華は複雑な気持ちで支払いを済ませ、始発にのって自宅に戻った。
あと三十分もすれば姉が起きる時間だった。
(さて、どうしよう……)
六華は住宅街の中にある、つつましやかなわが家を見上げる。
六華の部屋は二階にある。そもそも若干放任主義で、門限などうるさいことを言われたことはないのだが、なんとなく玄関からは帰りづらく、こっそり塀から屋根つたいに二階に上り、自分の部屋に窓から入りベッドにもぐりこんだ。
(あの人も、家に帰ったのかな……)
たった一夜の恋だった。
まだ体の中に、彼がいる気がした。
目を閉じると、押し出されるように目の端から涙が零れ落ちる。
悲しいわけじゃない。悔しいわけでもない。
ただあの彼が――あの一瞬、自分と抱き合っている時だけでも、苦しみを忘れていてくれたらいい。そう思った。
それが六華の人生を大きく変える一夜になるとは知らずに。
(なのに六年も経って、再会するなんて……!)
二十四歳の六華は、久我大河を支えながら唇をかみしめた。
若い男女の行きずりの行為。一夜の過ち。
よくある話といえばそうなのだろう。
けれど十八歳の六華にとって、あの一夜は生まれて初めての鮮烈な数時間だった。
一度思い出した記憶は、嘘でもなんでもない。
まるで昨日のことのように思いだせてしまう。
六年前、目の前にいる男は少年のような雰囲気を宿していた。
そして目の前にいる男は、六年前よりもずっとたくましく、精悍な青年になっている。
(久我大河が六年前の彼なのは、間違いないんだ)
本当に信じられないがいつまでも動揺などしていられない。悟られてはいけない。
自分にはなにを犠牲にしても、守らなければならない存在がいるのだ。
六華は理性を総動員し、自分をコントロールすることに全精力を傾けた。
「隊長」
大河の胸に手を置き、ゆっくりと体を離すと、大きな手で額を押さえ辛そうにため息をつく大河を見あげた。
「いや、俺はまだ隊長では……」
大河はそう言いかけて、目線を落とす。
「酒が体質に合わなくて……みっともないところを見せたな」
大河は自嘲するように首を振り、眉根を寄せた。
本当に恥じているようだ。
「大丈夫ですよ」
六華はそう答えながら笑顔を浮かべる。
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
(ああ、そうだった。私は六年前も、こうやって彼を支えたんだ)
彼は覚えているのだろうか。
六年前、酒に酔った彼を激しく求めた六華の事を。
それとも六華のように、記憶の海の底に眠らせているのだろうか。
(いや、まさか覚えているはずがない。酔っていなかった私だって、忘れていた……)
同じシチュエーションになって初めて思い出したくらいだ。酔ってどこか自暴自棄のようにふるまっていた彼が、覚えているはずがない。
六華は慎重な野生動物のように呼吸をひそめ、大河を見つめる。
「君に……謝らないと……」
相変らず大河は相変らずこめかみのあたりを指で押さえ、苦悩の表情を浮かべている。
かつて、六華と彼が過ごしたのはたった数時間。
しかも彼は今と同じように酔っていた。
(でももし彼が六年前のことを覚えていたら、もしくは思い出したとしたら……)
可能性を考えて、六華の背筋はぞくっと震えた。
駄目だ。それだけは絶対にダメだ。
(絶対に、思い出してもらったら困る!)
だが緊張する六華の不安はいい意味で裏切られた。
「その……君の姉上のことについて。申し訳なかった。竜宮警備隊の一員としてだけでなく、人として……最低だった。すまない。許してほしい」
大河はどうやら双葉のことを謝ろうとして、追いかけてきたらしい。
それから久我大河はしっかりと頭を下げた。
美しい黒髪がサラサラとこぼれ落ちる。
かつて彼の髪は肩を覆うくらい長かった。今はさっぱりと切られているが、その黒髪の美しさは相変わらずだった。
六華は思わず手を出して触れたくなってしまう自分の気持ちをを押さえるのに、必死になっていた。
(私が六年前の女だって、気づいていないんだ……よかった)
六華は嘘偽りなく、ホッとして、思わず肩から力が抜けた。
「謝罪の言葉をいただければそれで充分です。では」
「あ……」
若干そっけない六華の態度に大河は驚いたように目を見開いたが、六華はすでにくるりと踵を返し玄関を飛び出していた。
「待っている、男……がいるんだったか」
大河は同僚の発言を思い出したのか、ぽつりとつぶやいて、それから六華の細い腰に触れた手をじっと見つめたのだった。
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