きっと好きなのです。

 なるべく遠くへと走っていく途中、わたしはある曲を耳にしました。


 それはどうにも奇怪で、他の音楽とは違う不快感をもよおすような。それゆえに、どうにもわたしのなかですぐに印象づきました。


 そしてそれは、時間が経つごとに次第に外で耳にする機会が多くなり、ついには騒音レベルになるほどあたりを支配していきました。


 わたしは奇妙に思うとともに、どこかえもわれぬ息苦しさを覚え、すぐに手近な路地裏へと逃げ込みました。それでも、遠くから聞こえる曲からは逃れきれず、わたしはそこでしばらく耳をふさいでいました。


 あの曲は、いったい……?


 いまのいままで、まったく聴いたことがありません。まるでなにか毒ガスでも撒かれているような剣呑けんのんな空気をかもし出すそれは、少なくとも死んでから一度も感じたことのない感覚でした。


 ところで、わたしはいまどこまで来ているのでしょうか。幽霊に息切れがないとはいえ、生前の速度以上を出せない以上、一日ほどでは大して距離を稼げてないはずです。


 狭い路地裏から出て外を確認しようと動いたところで、突如ガクリと脚の力が抜けました。ちょうど、あの曲が間近に迫ったのです。


 ジーンズの尻ポケットのスマホから音楽を垂れ流した人が、外の路地を素通りしました。わたしは通り抜けたあとで動こうとして、すぐに足が動かせず、そうしてまた同じ音楽が近づいてきます。今度は冷え込んだ時期であるにもかかわらず、窓全開で大音量の音楽を流す赤いスポーツカーが通りました。


 どうして、だれもかも同じ音楽を流しているのでしょう。まるで、一日にしてなにかに操られているような。そして、どうしてわたしは、この音楽に対してなにか本能的な危機感を覚えているのでしょう。


 やがてその曲は複数の通行人や車により、激流のように間断なく流れました。いやに耳につくサビが身体を溶かすような、嫌な感覚。


 わたしは尻もちをついたまま身をしりぞき、路地裏の奥の室外機の影に隠れました。


 このまま外に飛び出せば、わたしはおかしくなる。そして、音楽を垂れ流した誰かが路地裏へと踏み込めば、また違うところへ逃げ込まなければいけない。


 しかし路地裏は行き止まりで、今の身体で壁や建物をすり抜けたその先が安全地帯であるという保証もありません。しかも、間近に迫られただけで脚がすくむようなものなら、一瞬でも気づくのに遅れると一巻の終わりというものです。


菊乃きくのちゃん……」


 膝を立てて耳を伏せながら、不意に不安に襲われました。


 神様からの仕打ちでしょうか。わたしが亡霊だからと、好き勝手したから。


 そう考えてから、わたしは小さく苦笑いを浮かべました。いままで神様なんて信じてこなかったくせに、と。


 菊乃ちゃんと出会う前のわたしには、本当になにもありませんでした。なにもないからこそ、わたしのなかには神様だっていなかったのです。


 そうするしか、わたしを保てなかったのです。


 わたしが物心のつく頃から、父親は転勤族で引っ越すことが多い人でした。


 わたしも何度かして親の都合だと諦めがつき、我慢してそれに付き合い、そうして希薄な人間関係ばかりを築いていきました。スマホを持った中学の頃も、どうせLINKを交換したところで遠く離れたら薄まるような関係だと、特に期待せず学校生活を送っていました。


 それがわたしなりの自衛本能だったのでしょう。現に、二つ下の妹のりんちゃんはそういったものを上手くこなし、引っ越した後の友達ともよく交流してたみたいでしたから。


 そんななにもなわたしが、どうにかなにかを手に入れよう始めたのが絵でした。


 わたしは人間関係を上手くこなしながら、そのかたわらで衝動的に買ったスケッチブックに、手近にある風景を写し取っていきました。絵は自分の鏡ということもあり、見る度にどこか空虚さが現れていたものの、それでも続けていればいつか自分のものになるのではないかとずっと思っていました。


 それでも、わたしにとっての絵はただの惰性にしかならず、それ以上になることもありませんでした。


 描いてる対象にまるで興味が持てなかったのです。人にも物にも、なにもかも。


 そして、高一の七月上旬ごろ。人生で六度目の転校の時。


 わたしは菊乃ちゃんと出会い、興味を持ち、気づけばその背中を追いかけていました。今になって考えてみると本当に「面白かったから」としか言えないのですが、わたしにはそれがとても不思議で気持ちのいい感覚でした。いつかなにかしらで物理的な距離が離れても、この子との関係は意地でも切りたくないと、久々にそんなことを願うほどでした。


 そうして、いつしかわたしは、彼女をモデルに絵に描こうとしました。緩慢かんまんにページを繰るようだったスケッチブックを、彼女の存在がみるみるうちに埋め、一ヶ月も経たずに次のスケッチブックを買うようになりました。


 菊乃ちゃんがわたしにちゃんと気を許した日、初めてやきもちのようなものを妬いてくれた日、だしぬけに「親友」と呼んでくれた日。わたしはそれらをすべてスケッチブックに描き、今でもすべて鮮明に思い出せました。


 冴恵さえちゃんや青葉あおばちゃんみたいな友達ができた後も、菊乃ちゃん以外にはどうにも以前と変わらない空虚な笑みを浮かべがちでした。だからこそ、わたしは菊乃ちゃんにより執着していきました。


 彼女と他の人でなにが違うのか、正直いまでもよく分かりません。ただ、なにか自分の空虚を埋める理由を、たまたま目についた菊乃ちゃんに求めていただけだったのかもしれません。本当は、誰でも良かったのかもしれません。それでも彼女は、わたしにとっての特別だと思っていました。


 そして、わたしがトモコによって殺されて幽霊になり、菊乃ちゃんがいままで隠していた感情をあらわにした時。自分のなかで大事にしていた感情が変わってしまいそうで怖くなり、わたしは一瞬だけ彼女から身を退きました。


 正直、最初からなにも変わってなかったのかもしれません。結局のところ、わたしはただ菊乃ちゃんと一緒にいたくて、彼女のそばでずっとその姿を見ていたかったのですから。ただ、それが彼女の想いで変質して、「恋」という単純な一文字に変わるのが怖かったのです。


 ただ、今はそれがしっくりときました。すべての源はそんな単純なもので、その割に変に入り組んでいたからそれに気づけなかったのだと。


 わたしも、菊乃ちゃんがきっと好きなのです。


 そこまで考えて、「消えてもいい」という感情が、「消えたくない」に変わっていることに気づきました。


 菊乃ちゃんのもとに帰って、ちゃんと話し合って仲直りして、そのままずっと彼女のことを見るようにしたい。心のうちに秘めていたことを話したら、菊乃ちゃんがどういう反応をするのか見たい。


 路地の方をちらと見ると、変わらず通行人や窓全開の車が絶えませんでした。耳に漏れる音からは、当然のようにあの曲が聞こえてきます。引き返そうにも、この曲が止んでくれなければどうにもなりません。


 どうにかならないかと、そう思っていると。突然、遠くからなにか悲鳴のようなものが聞こえてきました。


 一方から引き返し逃げ出す人々。やがて、逆方向から来た救急車や消防車のサイレンの音が混じり、いくぶんか身体が楽になって、ようやく路地へと顔を出して見回しました。


 パトカーの向かう側に、白衣をまとった中年の男。眼鏡をかけていて、手には血塗られた刃物を携えていました。警官から何度かの発砲を受けてもまるで効く様子もなく、男はせせら笑いながら踊るように警官へとその刃物を振りかざしました。


 あれは、『人喰い学校』の……


「ひさしぶり」


 向かい側から声がして振り向くと、そこには白いシャツと赤いスカートの、見覚えのあるボブヘアーの女の子がいました。偶然にも、彼女にも見覚えがあり、一瞬なにかの冗談かと思いました。


 それから間もなくして、周囲に響く不快な曲が別のピアノの曲へと変わりました。それはいつか聴いた、『ひとりでに演奏される音楽室のピアノ』の曲でした。


 わたしの目の前で『トイレの花子さん』は腰に手を当てて、にやりと微笑みました。


「わたしたちとは別の神さまのにおいがすると思ってここにきたら、まさか令がいるなんてね」


 どうして彼女たちがここにいるのか。どうして実体化したままなのか。どうしてわたしの姿が見えるのか。訊きたいことはたくさんありました。


 それでも、わたしはすぐに理解が追いつかず、


「……どうして、花子さんがトイレじゃないところにいるんですか」


 こんな変な質問が口をついて出てしまいました。


 わたしの質問に彼女は一瞬眉をひそめながらも、すぐにけろりと返しました。


「さいきんの花子さん、まちをねり歩くのがトレンドなんだよ」


 一瞬、わたしはあっけに取られて。


 あの曲が止んだ気の緩みからか、菊乃ちゃんにまた会える希望が見えたからか。


 気づけば、わたしのなかで笑いがこみ上げてきて、思わずその場で口を押さえて笑い続けていました。

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