目をそらしてて。
角を曲がり続けて距離を稼いでから、公園のトイレの個室に二人で飛び込みました。そうして、狭い個室でお互い壁に並んで息を整えました。
十二月で寝間着なのに汗がべっとりと貼りついていて、立ち止まっているうちにだんだんと肌寒くなりました。そういえば、今のわたしは(
ぶるりと震える感覚とともにクシャミを出していると、
「大丈夫?」
「すみません。あまり寒いのを気にしてなかったので……」
紙を何枚か出して鼻をかんでいると、菊乃ちゃんはだしぬけにブレザーを脱ぎはじめます。
どうしたのかと見ていると、それをわたしの肩にそっと掛けてきました。
「とりあえず、これ着て」
「いいんですか? それだと菊乃ちゃんが……」
「ベストとマフラーがあるし大丈夫だよ。それに、借りてる身体を冷やしちゃうのもアレでしょ?」
「……ありがとうございます」
狭いなかで気をつけながら、さっとブレザーの袖を通して着込む。ブレザーの内側に残った菊乃ちゃんの温もりが、張りつめた気持ちが安らいでいきました。
ちらと、菊乃ちゃんの方を見て。
吐息の音が近い。そして、なぜだか最初に唇が目につきました。
あと数センチ顔を近づけば、わたしは……
そこまで考えて、いつの間に熱っぽくなっていた頭を振りました。今の身体は借り物で、そういうことをするために憑いたわけじゃない。
それに……
「どうしたの?」
「い、いえ……」
「
「依織ちゃんも霊が視える触れるので、わたしが頑張ればどうにかなるかもしれません。……あと、ちょっと、口すすいできます」
「えっ……あ、うん……」
口の中に残っていた胃液で酸っぱい唾を飲み下しながら、個室から出て手洗い場へ行きました。
目の前の鏡を見ると、銀縁眼鏡の奥には真っ黒に染まった瞳。
これが、わたしが取り憑いている証。この身体がわたしのものではないということをあらわしたもの。
目を伏せて、鏡を視界から外して。
別になにかを期待してたつもりはない。そう自己暗示しながら、水道で口の中をすすいでいきました。
――本当に、菊乃さんが好きなんだね。
どこかから聞こえた声。頭の中から響いてきたような。
わたしが周囲をぐるりと見回すと、あははと笑う声がしました。
――私だよ、
「……頭の中を覗かれてるみたいで、あまりいい気分はしないですね」
――私も、身体を使われてるのはあまりいい気分じゃないよ。
「それは、すみません……」
小声でつぶやきながら、蛇口の水を止める。あとからハンカチを持っていないことを思い出して肘でブレザーのポケットをまさぐると、ハンカチのような膨らみがあることに気づきました。
気をつけてポケットからつまんで出てきたのは、カタツムリ柄のハンカチ。
――ダサッ。
「本当に謎ですよね。こんなのどこで買ってくるのか……」
思わずくすくす笑ってしまいながら手を拭いてポケットに戻し、個室に戻ろうとしたところでした。
背後に、ぞくりとするような気配。
「人の身体を借りて楽しそうね?」
振り返ってみると、薄暗闇のさす入り口の枠にトモコがもたれかかっていました。手には閉じた日傘を提げて、不愉快そうな顔をしている。
「……誰ですか、あなた」
「あー、とぼけなくていいから。あんた、
どうにも答えられず、答えに詰まる。どう言いつくろっても、わたしが取り憑いていることを知っているのでしょうから。
――誰ですか、この子供。
「トモコっていう、わたしに憑いて殺した悪霊」
依織ちゃんの声にささやいて答えました。
彼女のざわめきを感じているなか、トモコはひどく口角を強くゆがめて、
「そうだ。なんかこの子、あなたたちを探していたんだけど。おせっかいだったかしら?」
枠の外から、誰かが姿を現しました。
白い入院着、短い髪、怒りっぽい目つき。月島惑の生霊が、そこにいました。
「返してよ。依織はわたしのものなんだから」
「わたしには、依織さんが逃げているように見えましたけど?」
「だから、何? ペットってどれだけ愛情注いでも、戸締まりとかケージとか首輪とかで気をつけてないとすぐ逃げるでしょ。それと同じよ」
「愛情……?」
「そう。ずっとずっと、前からずっと、わたしのことしか考えられないように、身体にも心にも『わたし』を刻みつけてたのに。だけど依織は逃げるように、わたしを車へと突き飛ばした。でも、まったく後悔はしてないの。わたしの身体から意識が分離してから、わたしは人の身体に憑けるようになった」
誰かの入り込む余地も与えず、胸に手を当てて歌うように彼女は言葉を続け、
「わたしは毎日取り憑いて、彼女の嫌がることで『わたし』を刻みつけた。昨日は君たちと仲良くしようとしてたから、罰として依織の大事な大事な純潔をわたしが穢してあげたの。依織もさすがにこたえたみたいだったのに、君たちはまたも依織を奪おうとした」
――気持ち悪い。
ぞくりと、身体に悪寒が走りました。わたし以上に、依織ちゃんからの反応が強く、それは気温のそれではなく精神的なものでした。
「……歪んでますね」
「でも好きって、なにかしら歪んでるものじゃない? ただそれが、理解できるかできないかってだけで。だからわたしも、みんなの好きが理解できない」
話してどうにかなるとは思えませんでした。こうなったら、いまここでねじ伏せるしかありません。
彼女に向けて身構えていると、背後の個室が開きました。菊乃ちゃんも、話し声に気づいて出てきたようです。
「トモコ……」
憎々しげな声。わたしの横に並んで、黒ずくめの姿を鋭く見つめます。
「また、お前が……」
「彼女に関しては、わたしはまったく関与してないんだけど。わたしと同じで、『神様』に選ばれただけだから」
「神様……?」
「あなたのいう『付喪神』とは別よ。あれも所詮、『神様』に選ばれただけの存在で、わたしたちと同じ『使い』でしかない。とにかく、なんでもかんでもわたしを恨まれても困るの」
ヘラヘラと、そんなことを言う。
「でも、あなたがわざわざ連れてきたんでしょ」
小さくつぶやくと、彼女はぎろりとこちらをにらみつけてきました。
「わたしの菊乃を奪っていまだ平然としてるだけあって、相っ変わらず神経が太いわね」
ぎりと、奥歯を強く噛むような口元。
それでもわたしは、逆ににらみ返して握る手の力を強め、
――どうにか出来るの?
「やってみないとわからないでしょうね。それでも、やるつもりですけど」
わたしはブレザーを脱ぎ、菊乃ちゃんへと返しました。それから月島惑の方へと走り出し、入院着に掴みかかります。
その一方で、トモコは出入り口から数歩離れて、見物するように呑気に黒い日傘をさしはじめていました。
「まあいいわ。わたしは今日も近くで見届けるだけ。幽月令が介入した、その末路を」
まるでその先を知っているかのような、冷ややかで不吉な言葉。
それでも、まだ運命は決まったわけじゃない。
月島惑が死なないまでも、これ以上なにもできなくなるように。わたしは、押し飛ばした彼女に馬乗りして拳を振り上げました。
*
この一件で、私たちが幽霊に、トモコに敵わないことを思い知ることになった。
カンカンカンカンカンカンカンカン……
遮断機のスピーカーから響く、障るような電子音に近づいていく。
絶対に近づけさせちゃいけない。ここで間に合わなかったら、彼女は本気で二度と戻れなくなくなる。
それなのに、彼女は線路のなかへと踏み込もうとしていた。
令が悲痛な声で叫ぶ。
「お願い、待って! やめてください! そんなことしたら――」
「もうダメだよ! 令さんがあそこまで戦ったのに、あいつはどうにもならなかった!」
下りた黄色と黒の
彼女の寝間着の身体には、いたるところにほつれや傷ができていた。強い霊感能力を持つ彼女の身体を借りた令が、月島惑の生霊と争ってできたものだった。
私たちのほかに、車も人の姿もない。止めるなら、私か令のどちらかが警報機を押して作動させる必要がある。
だけど、仮に押して彼女を助けたとして、彼女をこれからもずっと苦しませるだけじゃないのか。そこから先、私たちにできることなんてないんじゃないのか。
警報機のスイッチまでまだ届かない距離で、思わず足が止まってしまう。
「菊乃ちゃん! なにやってるんですか! 依織ちゃんを助けないと!」
令は見開いた目で振り返りながら、警報機のスイッチを何度も押そうとする。だけど、焦って集中力が散漫になっているのか、それとも憑依でひどく力を消耗していたのか、何度やっても上手く干渉できず、警報機の作動する様子もない。
能代さんのほうに視線を移す。
彼女は線路の上でふらふらと小さく揺らいでいた。まるで、自分の中で動き出そうとする存在にあらがうような、そんな不安定な動きだった。
向かいから迫る電車は彼女に気づいているのかいないのか、スピードを一切
「依織! やめて! そんな簡単に死ぬつもりなの?」
「私が死ねば、もう月島さんの言うことなんか聞かなくて済むよね?」
「やめてよ! お願いだから言うこと聞いて! いままでのことは謝るから! だから、お願い!」
「月島さんが謝って私が許したところで、月島さんが私に抱く感情は消えないでしょ。だから、そんな汚いものを抱いてしまったことを、ずっと後悔してもらうよ」
ひとつの身体で、ふたつの人間が会話する。
それから瞳の灰色の光が消えた。そして彼女は無理やり笑顔を浮かべて、風のように消え入りそうな声でつぶやいた。
「たぶんグロいだろうから、目をそらしてて」
直後、電車が通り過ぎた。
カンカンと鳴る遮断機の音、金属質な電車の騒がしさのなか、木をへし折って水を弾けさせたものをあわせたような音があたりに響く。
ふと、令が死んだ日の記憶がフラッシュバックする。
トモコに手を引かれ、ふらふらと赤信号の横断歩道に進む令の背中。私はその後を追いかけて引き止めようとした。
あの日に見た黒ずんだ赤色が、いま見たそれと完全に重なる。
身体の力が抜けて、その場にくずおれた。胃の中のものがこみ上げてきて、思わずその場のアスファルトに吐いてしまう。
電車が少しずつスピードをゆるめて止まっていく。私は怖くなって、令のこともかまわず這うようにその場から逃げだした。
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