もう大丈夫です。

 行き先も特に浮かばず、私の足はとにかくれいから離れようと走る。


 途中で息が上がりそうになりながら、階段をなかばうようにけ上がる。もし足を止めたら、またあの状況と向き合わなくなる気がして、絶対追いつかれたくなかった。


 令を置き去りにして、私はどこへ行こうとしているのだろう。私が勝手に連れ回していたのに、どうして勝手に逃げようとしているのだろう。頭の隅で、そんなことが浮かぶ。


 だけど、それでも。


 彼女に冷たく否定されたことが、私にはこの世のなによりも怖くてならなかった。


「おい! どこ行くつもりだよ!」


 背後から、繰り返し叫ぶ声がする。


 佐倉魔薙さくらまな。不良っぽい霊能者の娘。私ほどではないけど、霊感を持っている。


 こいつが令に関わるのが嫌だった。だけど同時に、どこか気を使われているのがなんとなく分かって、それがつらくもあった。


 私は彼女を見捨てようとしていたのに、彼女はしつこいくらいどこまでも追いかけてくる。


「逃げんな!」


 彼女の運動神経の賜物たまものか、私の鍛錬不足からのものか、どんどん声が近づいてきた。


 追われる焦りで、廊下のなにもないはずの場所で足をとられてつまづいた。ぶつけた膝に涙が出そうになりながら、それでも立とうとしたところで、魔薙が私の右手首を掴んだ。


 痛いほど強く握られていて、もがいてもうまく振り払えない。まるで獰猛どうもうな動物のアゴで噛みつかれたように、それは私を逃してくれなかった。


「は、離してよ……」


「ふざけんな……こっちはゲンナマの代わりに一宿一飯で手を打って来たんだぞ……依頼してきたテメエが逃げてんじゃねえ……」


「いやだ……令のところに行きたくない……」


 全速力で走った後で、お互いに呼吸が荒くなる。


 振り払えそうになくて観念して、木張りの床に膝をつく。秋の夜更けということもあり、ひどくひんやりとしている。


 沈黙が続いて、しばらくしてから魔薙が口を開いた。


「まあ、なんていうか……アイツ、別にお前のことを嫌いになってねえと思うけどな」


「そういう話じゃないんだよ。中坊にはわかんないよ」


「そんな中坊の手をわずらわせてるのは誰だってんだよ。……てか、アイツはむしろテメエにめっちゃ甘えぞ。ウチだったらもっと容赦なく言ってやるのに」


「……令は良い子だから」


「ああ。ひどい物好きだけどな」


 からからと笑いながら、魔薙が廊下の壁に背をつけて座る。


 魔薙の言い方にカチンときたものの、前から令が私の一挙一動を面白そうに見ていたことを見ると、どうにも否定しづらかった。


 続くように、私も隣に座った。背中や後頭部からひんやりと、熱っぽい頭を冷ましていく。


 気を使わなくていい分、妙に安心する。そうして、言葉が口をついて出た。


「そういえば、さっきはごめん。私、あのまま置いてけぼりにしようとしてた」


「まあ、それが一番正しい判断だっただろ。多分、ウチだってそうしてたと思うし。むしろ、アイツの行動がアグレッシブすぎるんだ」


「まあ、うん……そういえば、お腹大丈夫? 冷やしてたりとか」


「…………」


 いきなり押し黙られて、どうしたのかと懐中電灯の光を向ける。なにか珍しいものでも見たような、気の抜けた顔をしていた。


「なにその顔」


「……ああ、いや。お腹は、大丈夫なんだけど。ストレートに心配されてビビったっつか」


「人をなんだと思ってるの」


「くせ者」


 そう言われて、苦笑いする。


 前に、令に「面白い子」と言われたのを思い出した。今の彼女にとって私はなんなんだろう。途端に不安になってきた。


「ねえ」


「なんだ? 戻る気になったか?」


「ごめん、まだ……私、どうすればいいかなって……」


「ウチだったら素直に話して謝るけど……そっちはどうしたいんだ?」


「私は……」


 見上げて、天井の暗闇をただぼんやり見つめる。


 思えば、人の心の深いところに触れるのが怖くて、いままでちゃんと人と喧嘩するようなことがなかった。


 正直いまでも怖いけど、このまま関係が壊れていくのはもっと怖い。


 衝動のまま、ひどく重い身体に力を入れて立ち上がる。


「おっ、戻る気になったか?」


「令をひとりで置いてきたのが心配だから」


「そっか」


 何故かくすりと笑う彼女に先んじて廊下を歩く。胸元を手で押さえて胸騒ぎを落ち着かせながら、令のところへ着くまでにおさまることを祈ってみる。


「それで、結局付き合ってたの?」


「いや。付き合いたかったんだけど、踏ん切りがつかないうちに……」


「そっかそっか。結構お似合いだと思うけどな」


「……そう?」


 少しだけわだかまっていた怯えが、だんだんと和らぐのを感じる。


 思えば、家族と令以外でここまで話す相手も珍しかった。それがちょっとだけ楽しいと、少しだけ考えていた。



 わたしは廊下の壁にうずくまり、ただふさぎ込んでいました。こんなことではいけないと思いながらも、いまは菊乃きくのちゃんにかける言葉が見つからないのです。


 なにか奇跡が起きて、わたしたちの間のすべてのしがらみが解けて解決する。そんなことを望むたび、何度も首を振って否定しました。


 これはわたしたちの問題ですから、やはり人に頼って解決するやり方は違うと思うのです。そう思いながらも、どうしてそこまで考えられてなにもできないのかと、そんな自分にもだんだん苛立いらだってきました。


 ふと、足音がしました。菊乃ちゃんかなと少しだけ期待して、腕のなかに伏せた顔を上げると、まったく知らない女の子が目の前に立っていました。


 暗いなかで顔はよく見えませんが、赤いスカートを履いています。


「こんばんは」


「幽霊……!」


 わたしはすぐに身を退けようとして、窓枠に思いきり頭をぶつけてしまいました。


 そもそもわたしも幽霊だったのに、この驚き方は正しいのか。そんなどうでもいいことを考える間もなく、女の子が近づいてきました。


「そんなおびえなくていいよ。とって食わないし、ジンタイモケーにもするつもりないんだから」


「……なんの用ですか?」


「ああ。あたらしいお客さんが来たから、今日こそは先生より先に顔をおがみたいと思ってたんだけど。まだジンタイモケーになってなくてよかった」


「教室抜け出したんですか?」


「ぬけ出すもなにもないよ。わたしの役割は、トイレにいることだもん。まあ、そのトイレにも、ちょくちょくぬけ出すんだけどね」


「トイレの、花子さん……?」


「せーかい」


 嬉しそうに笑いながら、わたしの横に座りました。


 それにしても、どうして花子さんが。


 わたしがそう口に出そうとする前に、花子さんが訊きました。


「ひとりで来た……ってことはないよね。だいたいここに来る人は、肝試しにきたダンタイさんだし」


「はい……友達が、二人……」


「ジンタイモケーになったの?」


「それは大丈夫でした。だけど、友達の一人にきつい言い方しちゃって。もうひとりは、その友達を追いかけてます」


「ケンカしちゃったんだね」


「喧嘩、ですかね……喧嘩するほど、実はお互いに触れてこなかった気もするんですよね……」


 花子さんへと、苦笑いする。


 しかし、相手は小学生です。こんな話、通じるんでしょうか。


 そう思ったこともあり、ついやっかみみたいな言葉が口をついて出ました。


「小学生の頃だったら、もっと簡単に解決できたんですかね?」


「小学生をなめないで。あれも死ぬほどめんどくさいし、あれのせいでわたし死んだんだから」


「当事者に言われると、妙に説得力ありますね……」


 変な子だな。


 そんな印象が頭に浮かぶとともに、ふと初めて菊乃ちゃんと話した頃を思い出しました。


 最初はひどく警戒けいかいされて、それでもわたしから積極的に話しかけるうちに、徐々じょじょに打ち解けていって……


 そこまで考えて、突如とつじょわたしの頭にひらめくものがありました。


 衝動しょうどうのままに立ち上がり、座り込んだ花子さんを一瞥いちべつして言いました。


「すみません。ちょっと、親友と話してきます」


「もうだいじょうぶ?」


「ええ。もう大丈夫です」


 そういえば、せっかくの七不思議である花子さんを置いてきてしまってよかったのでしょうか。


 しかし、連れてきたらなにかややこしいことになりそうで、一瞬迷った末に場所だけ把握して置いていくことにしました。


 走って階段の踊り場まで来て、どっちに行こうか悩みました。入れ違いになる可能性も考えて、それはあんまりです。


 悩んでいるところに、上からふたつの光がさすのが見えました。そうして光がせわしく動いてから、私に向いて止まりました。


 眩しさに目を細めてから少しだけ横に逸らされて、


「菊乃ちゃん……」


「令……」


 お互いに一瞬固まって、それからどうにか言葉をつむぎます。


「は、話が……」


 声と言葉が見事に揃ったことに気づいて、同時に言葉が詰まりました。


 さっきまでの緊張感も吹き飛んで、だんだんと可笑おかしくなり、わたしはたまらずふき出してしまっていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る