わたしが死んで、せめてひとつでも得があったと思ってください!
ポルターガイストというものがありますが、つくづくあれはとてもすごいことなのだと感じました。
授業中、自分の席の椅子も引けず、仕方なく別の空き教室をすり抜けてチョークを持つ練習をしていたのですが、たったこれだけでも大変なものです。
例えるなら、菜箸で乾いた小豆を持つようなもの。それほどの精密さが求められるもので、一瞬でも気を抜くと手からチョークが滑り落ちてしまう。登校してから午前の時間をかけても、震えながら持つのがやっとというくらいでした。
昼休み、弁当をつまんでいた
「結構大変みたいだね」
「箸より重いものが持てないどころか、箸持つのすら大変ですよー……」
「でも、お腹は空かないんでしょ? 朝も食べなかったし」
「別に食欲湧きませんしね。すでに死んでるから、飢え死にがないのが幸いってところでしょうか」
「ははは……」
わたしの冗談に、菊乃ちゃんはさらになんとも困ったような顔になっていました。
こうしている間にも、クラスメイトがわたしの身体をすり抜け、菊乃ちゃんを見て異物を見るような目をしていました。
どうにも不安になり、わたしはこっそり耳打ちしました。どうせ菊乃ちゃんにしか聞こえないのですが、つい生前の癖が出てしまいました。
「やっぱり、人前でわたしと話さないほうがいいですよ。目つけられたら、わたし助けられないですからね」
「……言ったでしょ。慣れてるから」
目をそらしながら、たどたどしく言いました。わたしが耳打ちした時、彼女はいつもこうやって挙動不審になります。
「慣れてるとかじゃないです。わたし心配なんですよ」
「
「…………」
うつむいてそう言う彼女に、言葉が詰まりました。
家族や他の誰にもいないことにされて心苦しかったのは確かで、唯一わたしを見つけてくれた親友のその気持ちを否定するわけにもいかず。
沈黙したまま。考えて、考えて、考えて……
「……分かりました。でも、いつかなにか起きた時に助けられるように、わたしも今日から訓練しますから」
「うん……なんか、ごめんね」
「わたし、菊乃ちゃんの背後霊ですから。それに、親友ですし」
気概を見せるべくぐっとガッツポーズをすると、くすくすと笑みが返ってきました。
よかった。暗い顔から戻って弁当の残りを口へと運ぶのを見守りながら、心の奥でほっと胸をなで下ろしていました。
午後は廊下から廊下の端を走ってみたり、入ったことのなかった部屋に入ってみたりして、そのまま空き教室でチョークで描く練習をしました。
持つことにも慣れて、どうにかチョークで線を描くことはできました。しかし、なんとも薄くミミズがのたくったような線になってしまい、これでは絵どころか字を書くのも先が思いやられそうです。
結局、そんなことをして学校で今日一日を過ごしていました。わたしは高校一年生だったはずなのですが、なぜこんな幼児期に戻ったようなことをしているのかと少し冷静になりながらも、いざという時のためとどうにか放課後まで乗り切りました。
帰り道、帰宅部でまっすぐ家に帰る菊乃ちゃんに付き添い歩きました。ここらへんは生前と変わらないのですが、道を交わす人がまっすぐこちらに向かってくるのが、なんとも困るものでした。
スーツのお兄さんが通るのをどうにか避けると、菊乃ちゃんが隣でくすくすと笑う。
「幽霊なのにすり抜けないんだ」
「あんまりいい気持ちしないんですよ。嫌でしょ、自分の身体になにかが通るの」
「まあ、嫌だね。私は死んだことないけど」
「それにしても、どうしてわたしは車に飛び出ちゃったんでしょう。あの日は体調も良かったし、日頃から車には気をつけていたはずなのに……」
何気なくそんなことを言うと、隣の菊乃ちゃんの顔がこわばっていました。
「どうしました?」
「……令は自分が死んだこと、後悔してないの?」
少し考えて、それから答えました。
「してないかと言われるとそうでもないんですけど、それでもなっちゃったものは仕方ないですから。朝言ったように、もう終わったことですし」
「それでいいの? まだやりたかったこととか――」
「わたしは菊乃ちゃんとまたお話できるってだけで、十分幸せですよ」
心配させないよう、笑顔を作って言いました。
多分、やりたかったことはまだあったような気がするのですが。それでも肉体のないこの幽霊の身体では、その衝動もほとんど抜け落ちていて、いまこれといって思い浮かぶものもないのです。
そんなわたしに、菊乃ちゃんは納得できない表情で、首を振りました。
「私はあったよ。生きてる令とやりたかったこと」
足早に一歩先に進んで、くるりと振り返り、わたしと向き合って足を止めて。ぶつかりそうになって思わず足を止めると、彼女はこわごわとわたしの身体を抱きしめました。
正確には、腕を回して抱きしめるようにしているだけでした。わたしにはその感触が伝わらないし、きっと彼女にも抱きしめている実感がないはずです。
それでも、彼女がこんなことをするのは初めてのことで、なんだか不思議な気持ちになりました。
「ちょっ、あの、菊乃ちゃ――」
「私は、こういうことがしたかったんだよ」
密着させようと、顔が近づきました。まるで、唇でも重ねるかのように。
きっとこのまま顔を近づけたところで、キスなんかできないのでしょう。ただ、空虚がそこにあるだけ。
そうと分かっていても、思わずわたしは腕をすり抜け、三歩ほど身を引いていました。
「あ……」
しまったと思った頃には、すでに遅く。
彼女の腕が脱力するように、ぶらりと下がりました。
わたしはどうしようかと迷いながら、気まずげに視線をそらすことしかできませんでした。
「ごめんなさい! ……だけど違うんです。その、いきなりだったから」
「いや……私が、無理やりしようとしたから……」
彼女の背後から照らす夕焼けが眩しくて、思わず目を細めて。
そうしてる間に、菊乃ちゃんはそのまま踵を返して、先に進んでいきました。
「どのみち、もう手遅れなんだ」
そうつぶやく声に、なにも言えず。
横断歩道の前に立ち、向かい側の端に花束や缶やペットボトルが置かれているのが見えました。いわゆる、お供え物というものなのでしょう。
信号が青になって渡りきり、通りすぎようとしたところで。
わたしは、意を決して声をかける。
「そこのジュース、もらっていきませんか?」
「……へ?」
「今のわたしじゃ飲めませんから。ここに置かれた以上はわたしのものだし、許可はしたから、バチは当たりませんよ」
ちらとお供え物に向けて視線を向けました。
さっきまでの彼女の陰ったような顔が一変して困惑して、それでも続けました。
「死んだ人の特権ってやつです。もらってください」
「は? いや、でも……」
「もらってください! わたしが死んで、せめてひとつでも得があったと思ってください!」
菊乃ちゃんは張り上げた声に驚いて、渋々オレンジジュースのペットボトルを拾いました。
彼女がそれを手にしたまま再び歩き始め、右手で未開封のキャップを握りしめて戸惑うところに、さらに声をかけます。
「飲んでください」
たどたどしい動きでキャップを開けて、中身に口をつけるのをじっと見届けました。
「どうですか」
「……身体、めっちゃ冷える」
震える右手で、無理やりペットボトルを口に運び続けました。
言われて、今が十一月だったのを思い出しました。わたしが寒さを感じないこともあって、その感覚を忘れていて、なんだか申し訳ない気持ちになりました。
「あの……やっぱり、無理に飲まなくても……」
「飲むよ。いつまでもしょげた顔して、令を心配させたくないから」
一度左手で口を拭ってから、そのまま飲みきりました。
しかし、そんなに一気に飲んで、お腹ピーピーにならないのでしょうか。そう思いながらも、野暮だなと思って黙っておくことにしました。
飲みきってから一歩前を歩く彼女の顔は、長い横髪で隠れていました。空のペットボトルを持つ右手の甲で、彼女がなにかを拭ってるのが見えます。
なんとなく、いま拭ったものを知るのは野暮だなと思って。わたしはそっと目をそらしました。
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