深夜のおにぎり屋さん
毒原春生
深夜のおにぎり屋さん
その店が目に留まったのは、偶然だった。
「……あれ?」
こんなところに、おにぎり屋なんてあったっけ。
疑問とともに足を止めて、照明で暗い道を照らしている店先を眺めた。
中に入るとすぐにショーウインドウにぶつかり、右手側には四席分の小さなイートインスペースがある。よく見るタイプだ。物珍しくはない。
開いている時間を除けば。
もうすぐ日付が変わろうとしている時刻だ。この時間まで開いている飲食店は、ファーストフードのチェーン店以外だとほとんど見ない気がする。
そんな時間まで私が出歩いている理由は、まあお察しだ。
ここのところ残業が多い。
連日の残業は私から余裕というものを奪っていた。
家に帰っても食事する気力もなく、シャワーだけ浴びてそのまま眠る毎日だ。最低限の栄養はカロリーメイトやゼリー飲料、カップ麺でとっている。
だからだろう。
離れた場所で見ても、手で握ったことがわかる素朴なおにぎりに心惹かれた。
ふらりと、私は引き寄せられるように敷居を跨いだ。
入り口の上には、「結び屋」と書かれた看板がかかっていた。
「いらっしゃいませ」
ショーウインドウの奥にいる店員が、そんな私を穏やかな声で迎え入れた。
今まで店とショーウインドウにばかり意識がいっていたので、店員のことを気にしていなかった。改めて店員と向かい合った私は、その姿を見て少しばかり目を見張った。
こんな時間なのに、立っていたのは年若い女性だった。
大学生か、もっと若くて女子高生か。どちらにせよ、時間帯には不釣り合いだ。
一瞬だけ狐に化かされたのかという考えがよぎって、すぐに非現実だと笑って否定する。
「店内でのお召し上がりですね?」
「あ、えっと」
「イートインをご利用ですと、百円で豚汁をお付けできますよ」
店員の問いかけに、私は逡巡する。
どうして持ち帰りとの二択ではないのだろう。まずはそんな疑問を感じた。
「……持ち帰りはできないんですか?」
「できますが。お客様はこちらで召し上がっていただく方がよろしいかと思って」
ますます意味がわからず、首を傾げる。
外で食事をするのはどうにも苦手だ。
早く場所を空けなくてはいけないと気が急いてしまって、食べた気にならない。
しかし、こんな時間帯だ。私以外の客が来る可能性はほとんどないだろうし、来たところで席数には余裕がある。焦ることなく食事をしても問題ないだろう。
家に持って帰っても、いつもの習慣で食べる前に寝てしまう可能性もあった。
何より、豚汁だ
最近食べた温かい食べ物は、おざなりの具しか入っていないカップ麺くらいだ。温め直しのものだとしても、人の手で作られた汁物には心惹かれた。
「……はい。こちらで食べていきます」
「はいっ。では、好きなおにぎりをお選びください。……といっても、こんな時間ですので。売り切れのものも多いんですけどね」
えへへと笑いながら、店員が申し訳なさそうに頬を掻く。
愛嬌のある仕草に、つられるようにして私も思わず笑みを浮かべた。
ショーウインドウを見ると、確かに売り切れのものが多かった。
エビマヨや天むす、明太子といった、食べでのあるおにぎりは見事になかった。人気メニューという張り出しがされているもの、期間限定と銘打たれているものも同様だった。
定番の梅や鮭は、いくつか残っている。
それを頼もうかと思った時、ふと、あるおにぎりが目についた。
三角に握られたおにぎりのてっぺんから、黄色い色が覗く。
メニュー札には可愛らしい文字で「たまごやき」と書かれていた。
「……卵焼き」
二つだけ残っているそれを見て、思わず口から声が零れた。
「当店では甘めの卵焼きを使用しております」
それを質問だと受け取ったのか、店員がハキハキとした声で説明してくれた。
甘めの卵焼き。
その言葉は、私の気持ちを後押しするには十分だった。
「それじゃあ、卵焼きのおにぎりを二つ。それと、豚汁を」
「かしこまりました。席までお持ちいたしますので、おかけになってお待ち下さい」
そう言うと、店員はショーウインドウから卵焼きのおにぎりを取り出す。
トレイが空になったのを何気なく見届けてから、私はイートインスペースに向かった。
お茶はセルフサービスらしく、大きめのポットとプラスチックのコップが壁際に置かれていた。表面にすっかり結露がついたそれを持ち上げて、お茶をコップに注ぎ入れる。
麦茶かと思ったが、口づけたそれは馴染みのない香ばしさがあった。
首を傾げながらポットを見ると、「そば茶」というラベルが貼ってある。
なるほど。道理で馴染みのない味のはずだ。
もう一度口に含み、舌の上で転がす。初めて飲んだそば茶はなかなかおいしかった。
一杯目をすぐに飲んで、二杯目を注ぐ。
二杯目をゆっくりと味わっていると、味噌の香りがふわりと鼻をくすぐった。
つられるように顔を上げれば、さっきの店員がお盆を持って歩いてくる。
丁寧な動作で、小さな机に皿が二つとお椀が並べられた。
「おまたせしました。卵焼きのおにぎりと、豚汁です。漬物はサービスとなっていますので、おかわりがあればお声かけください」
変わらずハキハキとした声で言ってから、店員は奥の方へと戻っていく。
小さな暖簾の奥に消えていく背中を見送った後、私はテーブルに目を向けた。
湯気が立っている豚汁に、小皿に盛られた黄色いたくあん。
そして、おにぎりが二つ。
どれにしようか迷い、まずは豚汁に手を伸ばした。
熱を持ったお椀をそっと持ち上げて、息を吹きかけてから汁を啜る。根菜と豚バラの旨味をたっぷり吸った味噌と出汁の味が、口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
ほう、と息をつく。
久々にまともな汁物を食べたことを差し引いても、この豚汁はおいしかった。
煮込まれた根菜はほどよく食感が残っていて、噛めば根っこの味を感じる。豚バラもよくある薄切り肉じゃなく塊肉から直接切り落としたような厚みがあって、食べでがあった。
最後に加えられたのか、シャキシャキとした歯ごたえを残すネギがまた心憎い。
夢中になって箸を動かしていると、あっという間にお椀の中が空になった。
「……。ふう」
お椀を置いて、また一息つく。
(これ、おかわりほしいな)
最初より多少割高になってもいいから、また食べたい。
そんなことを思いながら、箸休めにたくあんをつまむ。ぽりぽりと頬張れば、いい塩梅の塩気とほのかな甘みが舌の上に広がった。
これもまた、おいしい。
とっておくつもりが、三切れあったたくあんを綺麗に食べきってしまった。
残ったのは、大きい皿に並べられたおにぎりが二つ。
(……卵焼きのおにぎり、か)
あまり見ない具材だと思う。
一時期コンビニに置かれていたが、定番化していない。お弁当の中身としておにぎりと卵焼きは定番だが、おにぎりの中に卵焼きを入れるのはしっくりこない人が多いのだろう。
だが、私には思い出深いものだった。
卵焼きのおにぎりは、我が家では定番のものだったからだ。
母は、子供なら甘いものが好きだろうと思い込んでいた人だった。
食卓に並ぶおかずは大抵甘みが強く、父が辟易していたのをおぼろげながら覚えている。私も甘いばかりの煮魚や煮物は正直あまり好きではなかったが、母の気遣いを無下にしたくなくて、そういった不満を口にしたことはなかった。
そんな中で、好きだったのが卵焼きだった。
ほんのりと出汁の味がする、甘い卵焼き。
冷めてもおいしいそれが、小さい頃の私にはたまらなくおいしかった。
記憶にはないが、おそらくそのことを母に伝えたのだろう。母はいつからかことあるごとに卵焼きを作るようになり、それをおにぎりまで入れるようになった。
お弁当には、必ず普通のおにぎりと一緒に卵焼き入りのおにぎりが入っていた。
特に目印もないから、食べてみるまではわからない。最初に食べたい気分だったものに当たった時は、子供心に妙に嬉しかったものだ。
実家を離れ、一人で暮らすようになってからは食べていない。
仕事が忙しいあまりもう数年は帰っていないから、なおのこと。
「……」
そっと、おにぎりを一つ手にとる。
コンビニで売られているおにぎりより少しばかり小さいが、ぎゅっと圧縮されたお米の重みが手のひらにはっきりと感じられた。
実を言うと、コンビニで売られていた卵焼きのおにぎりを買ったことはあるのだ。
しかし、それは出汁の味が強いしょっぱい卵焼きが入っていた。それはそれでおいしくはあったが、どうしても違和感が強く、もう一度買うことはなかった。
これには甘い卵焼きが入っているという。
私は、恐る恐る三角にかじりついた。
まず感じたのは、この中で一番主張が強い卵焼きの味。
砂糖でしっかりつけられた甘みの中に、ほんのりと出汁を感じる。
咀嚼していくうちに、そこにお米の甘みと、水分を吸ってしっとりとした海苔の風味が混じっていく。塩の味がアクセントとなって、お米と卵焼きの甘さをより引き立てていた。
昔、食べた味だった。
アルミホイルの包みを剥がしてかじりついた時と、同じ味だった。
一口一口に、長い時間を要した。五分とかからずに食べ終えるコンビニのおにぎりと同じように、手の中にあるものを扱いたくはなかった。
一個のおにぎりを食べ終えるのに、十分以上かかった。
「同じだ」
そば茶を一口飲んだ後、そんな言葉が零れた。
その言葉に突き動かされるように、二つ目のおにぎりを手にとる。
口に運んだそれもやはり、かつて食べた味がした。
「……あれ?」
おにぎりの味を噛み締めていくうちに、ふと、急にしょっぱさを感じた。
強烈なしょっぱさではない。しかし、気のせいと思うには存在感があった。
口の中のものをいったん飲み込んでから、首を傾げる。
その時、ぽろっと雫が頬を伝った。
「……あ」
私は遅ればせながら、自分が泣いていることに気づいた。
悲しいわけでも、感極まったわけでもないのに。涙腺が壊れたように涙が止まらず、頬を伝ったそれが唇の端に触れる。じわりと染み込んだ涙が、口の中をしょっぱくした。
人は、懐かしさで泣けるのだと。
私はこの時、初めて知った。
「ぐ、ぅ、ぅっ」
おにぎりの味を変えないように、涙を服の袖で拭いながら二つ目のおにぎりを食べる。
袖口がすっかり濡れて、もうこれ以上吸い込むことができない。そんな状態になったころ、私は二つ目のおにぎりを完食した。
今度はそば茶を飲まなかった。
おにぎりの味を、流したくはなかった。
「ごちそうさま、でした」
手をそっと合わせて、感謝の言葉を零す。
この言葉を口にしたのは、久しぶりだった。
いただきますもごちそうさまも一人だと言う気になれなくて、ましてそれが空腹をしのぐために適当に詰め込むものならなおのこと。思えばまともな「食事」をとったのも、これが久々だった気がしてくる。
ふう、と小さく息をついてから、背もたれに寄りかかる。
「さいごに、これが食べられてよかった」
…………あれ?
そういえば私は、病院にいたのではなかったっけ?
ショーウインドウからイートインスペースを見ると、そこには誰もいなかった。
空になったお皿が二つにお椀だけが残っているばかり。
この店はお客さんにお手洗いを貸し出していないし、奥の方に行くと待機している店長と出くわすから、入り口以外に行けるところはない。そして、入り口から出ていないのを私はしっかりとこの目で見ている。
「店長ー。お客さん、いなくなっちゃいました」
「そう。なら、いってしまったのね」
奥の方に声をかければ、片づけをしていた店長が穏やかな声でそう返した。
「じゃあ店じまいをしてしまいましょう」
「はぁい」
「残ったおにぎり、好きなのを持って帰ってね。豚汁はポットに入れておくわね」
「おねがいしまーすっ」
初老の婦人である店長とそんなやりとりをしてから、私はショーウインドウから出て暖簾を下ろす。深夜のお客さんがいなくなった後に新しいお客さんが入ることは今まで一度もなかったけど、念のためだ。
だって、営業時間はとっくに過ぎているのだから。
暖簾を下ろして戸を閉めると、今度はイートインに足を伸ばす。綺麗に食べ終わったお皿を片づけながら、さっきまでいたお客さんのことを思い出した。
(あの人、お金を払ってないことに気づいてなかったな)
気づいていても、払えるお金は持っていなかっただろうけど。
「ちゃんと成仏できたかなあ」
お米一粒残っていないお皿を持って、私は奥へと戻っていった。
ここは「結び屋」。
人生の結びを、おにぎりに求める人がやってくる店だ。
深夜のおにぎり屋さん 毒原春生 @dokuhara_haruo
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