【お題】「銀」「眠れない夜は」

 眠れない夜はあの日のことを思い出す。窓辺に満ちる月明かり、白銀の腕、女の囁き。唇までも真っ白に染まったその口から高くも低くもない凛とすました声が漏れてくる。あの夜も眠れなかった。幾度もシーツの上でもぞもぞ寝返りながら暗い天井を見上げ、闇に慣れた目で木目を一つ一つ数える、そんな夜だった。

 閉め切ったカーテンの隙間から漏れる月明かりがいやに眩しくて、僕は月に背を向けるように横になりながら部屋の隅の暗がりをじっと見つめていた。目を閉じたほうが眠れるのだろうけれど、ちっとも眠気が訪れなくて僕は少しイライラしていた。そんな時だ、窓を閉めているはずなのにカーテンがふわりと動いて、月明かりが僕の見つめていた部屋の隅をちらちらと照らした。最初はぼうっとしていたから不思議にも思わなかったけれど、すぐに窓が閉まっていることを思い出して振り返った。

 そこには何もいなかった。わかりやすい形の幽霊も化け物も何もいなかった。ただ窓が少しだけ開いて、夏の夜の空気がゆるりと流れ込んできていた。昼間の暑さをすっかり忘れたような、どこか水っ気のある、でもべたべたとはしていない空気だ。カーテンは風というほどでもない空気の流れに押されてゆらゆらしていて、その隙間から真ん丸の月と空いっぱいにちりばめられた銀の星屑が見えていた。

「誰?」

 こういう時は声を出さないほうがいいに決まっているのだ。不可思議はそれを見つけた人に寄ってくる。けれどこの時の僕は無邪気に無防備にそんな声をあげてしまったのだ。するとカーテンの後ろから白っぽい腕がするりと出てきて面白そうに笑うそぶりを見せたのだった。

 落ち着いて考えればそれは幽霊か何かに違いなかった。けれど、その時の僕はあんまりその腕が綺麗だったものだから、それが悪いものだなんて少しも思わなかったのだ。白く見えた腕は自ら輝いていて、むしろ銀と呼ぶ方がふさわしいように思えた。それはそれは神々しくて、細くて美しいその腕はまるで女神様のもののように思われた。

 ――おやすみ、幼い子。良い子だからおやすみ。

 そんな声が部屋の中に響く。白銀の腕がするすると伸びてきて僕の頭をそっと撫でた。その手は冷たくなかった。カーテンの下から同じく白銀の肌と唇がちらりと見えて、もう一度「おやすみ」の形をつくった。

 僕はそのまま目を閉じた。優しい掌と優しい声に安心して、すっかり身体の力を抜いてしまった。その腕が、声が誰のものなのかも気にせずぐっすり眠りこけて、気付いたらもう朝だったのだ。寝ぼけ眼で部屋を見回し、ゆっくりと身体を起こし、半分ほど開いた窓を見ておやと思って、それでようやく昨晩の記憶を思い出す。はてあれは夢だったのかしらと思っても、目の前には開いた窓がある。けれど幽霊にしてはずいぶん美しく優しい腕と声だった。この世を恨んだり誰かを呪ったりするようなものとはとても思えなかった。幼い僕はひとまずそれが悪いものではなさそうだということに納得して、それきり深く考えなかった。

 眠れない夜は今でもあの日のことを思い出す。眠れぬ夜に幼い僕を慰めてくれた優しい腕と声の主を。もしかしたら母親が寄り添ってくれたのかもしれない幼き日の漠然とした思い出を、今も僕は夜の女神様のような何かが気まぐれに手を差し伸べてくれたのだと思っている。そして、こんな眠れない夜にまたあの優しい腕が、声が寝付かせにきてくれないだろうかと思っているのだ。

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