第10話 窓の下のセレナーデ
ピアノの音が聞こえた。
ベランダ伝いに音楽室へ行く。窓がひとつ空いている。こっそりのぞき込むように、窓辺から教室の中を見た。
ブレザーを脱いで、ピアノを弾いている女がいた。
鍵盤の上を左手がウロチョロ走っている。右手は落ち着いて、優しくピアノを撫でているようだ。
ピアノを見ているはずなのに、胸がどきどきしはじめた。
右手がピアノの鍵盤の真ん中あたりを引いているとき、左手がいきなりその手に重なって鍵盤を弾き始めた。右手と左手が重なりながらピアノを弾く。まるで恋人つなぎのような手でピアノを弾いていた。
しばらくして交差をやめたと思ったら、一際大きなメロディが奏でられた。
また穏やかな音が響く。手が白くて大きくて、すらりと指が長い。
いきなり指が跳ねて、鮮やかに、喜ぶような音色が鳴っていた。
静かに静かにピアノが歌う。最後は両手が綺麗にそろって弾き終わっていた。
思わず手を叩いた。心音がピアノに負けないぐらいに高鳴っていた。よくわからないけど、すごい。そう、ピアノがわからない俺にすごいと思わせるぐらい魅力がある。
目と目が合う。ピアノの演奏者の青い瞳が驚いたように見開かれた。
盗み聞きしていたのを忘れていた。
背の高いそいつが立ち上がる。怒ったような大股で、こちらに向かってきながら言った。
「なんだおまえ。セレナーデ練習してるのに、窓下で聞くな。いいから、入って来い」
「は、はい」
低い声には有無を言わせない迫力があった。
音楽室の窓を飛び越えて、教室に入る。ふしぎな空気の場所だった。静かだ。
窓から風が入る。女の長い黒髪が大きく揺れた。腰にまとわりつく黒い布に見えるぐらい漆黒で、ツヤのある髪だった。
こいつ、間違いない。
昨日、喫茶店にいた女だ。ヘッドホンをして、しかめっ面で携帯をいじってた女だ。
俺がブルームーンにこいつ?ってメッセージを送って、違うっていわれた女。俺はそいつがブルームーン本人である可能性を捨てきれないでいた。
「あんた、あたしになにか用か?」
何か言わなければいけない。言わなきゃ、ここにいる理由がなくなってしまう。たしかめなきゃいけない、この女子が俺のゲーム友達かどうか。もし、そうならば友達の枠を超えて見せる。
「そうだ、楠木正成」
「いや、楠木正成だれだよ。というか、あんたも誰だし」
「時雨。天宮 時雨」
「生徒会室に呼び出されてたやつじゃないか。ん? 時雨?」
立ったままの女が、腕を組んで機嫌悪そうに睨んでくる。それを隠しもせずに聞いてきた。
「あんた、ピアノ好きなの?」
「ピアノが好きかはわからんけど、ピアノ弾いてるおまえの手はすきだ」
「うわ、キモッ」
本気で嫌がられた。両手を脇に挟んで隠される。そんな嫌がらなくても。
「ピアノは弾くタイプじゃないな。聞くのか?」
「聞く。聞くって言っていいのかな。マイチューブって知ってるか?」
「しってる」
「そこでピアノ弾くひとの動画をよく見てる」
「ふーん。なんてひと?」
「かなでチャンネルのかなでさん?」
「ふーん。……ふーん?」
眉間にしわを寄せて、首をかしげられる。ネットの演奏者さんの知名度なんてそんな無いと思うけど、そこでつながれたら嬉しい。
「そんな人は知らないけど、まあ座りなよ」
ピアノからみて右の席を指定されて座る。
右側から見ると、なんとなくだけど、ピアノを弾く女の顔が明るく見えた。綺麗な眉をしているとか、まつげが長いとか、目の色が空の色みたいとか、映える容姿がわかりやすい。
「今日は、うん。そう、なんか特別な日だ。だから、あたしも気分がいい。なので、お前が見ていてもいい日だ」
「よくわからんが、見てろってことだな?」
「そう、そういうこと」
なんだ? いきなり機嫌がよくなったぞこの人。雰囲気から話しかけるなオーラでてるくせに、意外と話すの好きなのか?
「よし、よし。このまま。うん、いける。おまえ、ちょっとそこ座ってろ。どう思ったか聞くから、聞いてろ」
だまって俺は座っていた。けど、ちょっと緊張している。
さっきと同じ曲だった。ただ、さっきと全然違った。
はじめから終わりまで、別人のような弾き方だった。
「どう、だった?」
「やめろよ。なんか悲しいよ、これ。もどかしい。さっきこれ聞いてドキドキしたのに、なんで?」
「そうか、ふふっ、そうかそうか。ははっ!」
前かがみになって、肩を揺らしながら口を開けて笑っていた。
こんな表情もするんだ。
「わるい、わるい。なんだっけ、雑音」
「雑音って俺の事?」
「そう。俺のこと。おいで」
手招きされて、俺はピアノの横にいく。
「まあ座りなよ」
ピアノを弾くための黒くて長い椅子。詰めて座れば2人座れないことはないが、そこに座れと言ってくる。
「ん?」
座らないの? と目で聞いてきた。俺は黙ってその椅子に座る。相席してるみたいだ。
「うん、悪かった。お礼に手、見ていいよ。好きなのは手? 指? どっちでもいいけど。練習曲弾いてあげる。指の運動」
右手を鍵盤の中心に置いて、左手を添えていた。
鍵盤が沈む。それと同時に全身で音を弾くように、となりの同級生の体が力強く動いていた。
左手の動きがやばい。はやく、強く、やわらかい。左手の指が足のように少しずつ鍵盤を歩き、端にまで到達したと思ったらまた真ん中に戻る。今度は右手と左手が両方10本足で歩いてくるようだった。
なんだこの曲。荒々しい。
ピアノの演奏者の体がずっと揺れたていたり、頭を振ったりしながら弾いているせいで迫力が凄い。
俺の肩と女の肩が当たる。右手と左手が鍵盤の端っこに来ていた。左手が何度か跳ね、重い音が響く。
鬼気迫る雰囲気の演奏が終わっていた。心臓が掴まれたかと思った。
「ごめん、ごめん。見る余裕なんて、なかったね?」
「っは、はー。息ができない。息が詰まった。お前なににイラついてんの」
「そういう曲ね。やっぱわかるんだ。あーあ、出し切っちゃった。革命で左手見せたから次、右手の木枯らしでも弾こうと思ったけど、いま以上に良い演奏ができないから今日はやめとくよ」
「お前を近くで見ると怖い。ここでいい」
俺は演奏者の椅子を下りて、音楽室の机に戻る。両腕をついて、頭を腕にのせた。
「最近聞いた曲。流行り……うーん、と」
さきほどまでの壮大な曲が嘘みたいに軽いタッチで曲が流れる。
「七色エスケープの七色ポップだ」
花恋の所属するアイドルグループの曲だった。いちおう、雷堂も。
「これ、よく聞くよ。耳に残りやすくて、わかりやすい曲。そのくせさ、上から目線で煽ってくるギターがいいよね。ギターもボーカルも良いけど、もうひとり歌ってる可愛い女の子がすきなんだー。前、ちょっと会った事あるんだけれど、1番負けず嫌いで色んな色だせる子。ぜったい女優むけだよ。そのくせストイックで色んな事に挑戦するから応援したくなるんだー」
俺は思わず駆けだした。
「え? なんで泣いてるの? なのに嬉しそう。なにそれ?」
「俺、お前がすきだ。ありがとう」
手を握って、上下にふった。
驚いた瞳とぽかんと空いた口のまま、声にならない声で笑われた。
「へんなやつ。けど、男から好かれて悪い気しないのは、はじめてだ。気持ちは受け取っとくよ、雑音」
「俺のことは嫌いになっても、花恋のことは嫌いにならないでください」
「もしかして身内? というかお兄ちゃん? へぇー、そうなんだ」
まさか花恋トークができるとは思わなかった。花恋を推してくれるひとは、全員好きだ。
花恋には握手のような接触系のイベントはさせないけど、俺となら何度でも握手してくれていいから。花恋のファンサービスは俺がするから。需要なさそうだけど。
そんな思わぬ話で盛り上がり、ショパンやリストとかいう作曲家のことを教えてもらっているときだった。
「携帯かな。鳴ってない?」
「え? あ、本当だ。振動してる。ちょっとごめん」
携帯電話のディスプレイを見る。花恋からだった。
「もしもし」
「お兄ちゃん? ごめん。いまどこっ?」
「学校。どうしたよ?」
「ごめん。ほんとうにごめんだけど、すぐ帰って来れない? お家が大変なの。あのね、いきなりね、お父さんの部屋から物が全部外にだされちゃって、壁こわされててっ。警備会社のひとたちがいっぱい来ててっ」
なんだか突拍子もないことが起こってるらしかった。
「ちょっとまってろ」
「……うんっ」
そう言って電話を切った。
「大きな車のエンジン音。数人の足音。不安より驚きが強い電話の声。ふーん、なんか難しいことになってるみたいだね。はやく行きなよヒーロー。あとひとつ。昼からはたぶんここでピアノ弾いてるから、気が向いたらおいでよ」
「悪いな、また来る。そうだ、名前ぐらい教えてくれよピアニスト」
俺は入って来た窓から、ベランダに出ながらそう言った。
「うーん、そうだな。雪姫。あたしのことは雪姫って呼んでくれ」
「綺麗な名前だ。しかも似合ってる」
「ははっ、あたしもそう思う。って、バカ。おまえ、ここ2階だぞ」
「じゃーな!」
俺は2階から飛び降りて自宅へ向かってダッシュした。プロの帰宅部員だけが使えるダイナミック・ショートカットスキル、飛び降り帰宅。
2階の音楽室を振り返る。指を2本口に入れて口笛を吹く雪姫の姿が見えた。今度あれも教えてもらおう。
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