第50話 ネイル-42 『問いの答え』
蜥蜴人が去り、辺りはただの夜を取り戻す。
バドウは生きているが、呻き一つあげない。酸の沼からの、しゅうしゅうと音を立てる蒸気のほうが賑やかだ。
ときに岩の間をすり抜けた風が、ひゅうと吹き付ける。ドゥアやリーズたちの戦う音が、段々とまばらになっていった。
煮えた頭が冷えていく。何に怒っていたのだろう。
それはホルトの仇。仲間を奪い、クレアを奪ったこと。
――あいつらと、ホルトと、クレアは別なんだな。
「クレア、怪我はないか」
「……わたしなどより、ネイルのほうが」
「オレはお前に聞いたんだ。怪我はないか」
彼女は肩の近くに座って、こちらの頰や首すじを撫でる。案じてくれているのだ、いまの返答はその気持ちを踏みつけてしまったかもしれない。
「ネイルが守ってくれましたから。わたしは無傷です」
「そうか、オレも問題ねえ。痛えは痛えがな、ほっときゃ治る」
聞いてクレアは、肩を大きく上下させ息を吐いた。ふうぅぅぅ、と長く。小さな胸に、よくもそれだけ溜めこんだと感心するほど。
顔も伏せられて、見えない。泣いているのではなさそうだが、どうしたのか。
しかし見えたところで、彼女には表情がない。笑うなり、怒るなり、感情を見てみたいと思う。
「ねむ、れ。よぃぃ子。よぉるの――」
歌ってみた。あの晩に習っただけで、まだ数度目だが。
知っている言葉ばかりなのに、音の上げ下げをこうと決められると難しい。聞いていると胸の奥が安らぐような、クレアの歌とは比べ物にならなかった。
「お上手です」
一節が終わって、ようやく顔をあげてくれた。下手くそだと笑ってでもくれればいいのに、彼女はいつもの真顔のままだ。
だがそれでもいい、いつもクレアの顔を見ていたい。よそを向かれるのは悲しいと、心底おもう。
「上手じゃねえだろ」
「いいえ、とても温かく感じました。歌の技巧もありますけど、心をこめるのがいちばん大切だと思います」
心をこめると言う寸前。ほんの一瞬、向かい合わせていた顔を僅か逸らした。きっとそうして、ネイルの知らない何かを思い出したのだ。
クレアの顔や気持ちが、少しでも他を向くのが寂しい。いつも、いつでも、ネイルのほうだけを見ていてほしい。
けれどもそれでは、彼女に猶予がない。いつもいつも鹿や鼠ばかりを食っていては、飽きるというものだ。ネイルにも魚や林檎を食べたいと思うときはある。
「心は知らねえ。クレアが安心すればいいと思っただけだ」
「――ええ。安心しましたとも」
そうだ。この島には、ネイルの大切なものがあった。この島そのものが、他にないネイルの居場所なのだ。
それを荒らす者が許せなかった。
特に何があるわけでない。魔物も獣も町の人間も、それぞれやりたいことをやっている。ときどき互いがぶつかって、誰かが死ぬことになる。
この島は、それが日常。明日をも知れないと言えばそうだが、そうと分かってなお、安らぐ。
あの棲み処で、足下からずっと聞こえていた潮騒も今は懐かしい。唯一気に入らない、煩わしいと思っていたのに。
そんな気持ちを。感情を。
ネイル自身でさえ気付かないものから、強く想うものまで。奴らは知らない。知ろうともしない。
怒ったのは、おそらく。
だからクレアがこの島に感じることや、ネイル以外に向ける気持ち。そんなものを無碍にしてはいけない。
とても当たり前のことに今さら気付いた。ネイルだけでなく、誰だって思うところはあるのだと。
「クレア」
「はい、ネイル」
「いつか聞かれたことに答えてもいいか」
「聞かれたこと、ですか?」
あのときには、きちんと答えられなかった。彼女は問うたのを覚えているだろうか。忘れていてもいいから、聞いてほしい。
「オレは生きることも死ぬことも、怖くなかった。目の前の獲物を狩って食うしか考えなかったからだ」
「その時々を懸命に生きるのが、間違っているとは思いません」
緊張の解けたクレアは、穏やかな顔つきになった。絵にでも描けば、たぶん差はない。しかしネイルには見える。安堵して、僅か微笑む彼女の心が。
それは美しかった。人間とか鬼人とか、種族差に関わりなく。造形の美醜でなく、晴れ渡った星空を讃えるのに近い。
妄想でもそうなのだ。彼女の現実が笑えばどれほどか、それこそ眩しさに目を潰しそうで怖い。
「そうかもしれねえが、オレは懸命でもなかった。何しろ今は、怖えものがある」
「お聞きしても?」
「クレアを失うことだ」
じっと聞いていたクレアが、首を傾げる。「わたしを?」と、分かりやすく疑問も口にした。
「わたしなどにそんな――」
「わたしなどじゃねえ。お前が必要だ」
「仲間だからでしょうか」
それはそうだ。しかし違う。何が違うのか、ネイルの内では明白だった。
だがそれをクレアへ伝えるには、言葉にしなくてはならない。
「仲間ってのと、少し違う。ホルトは他の仲間と違った。でもあいつとは、いつも同じ場所に行ければ良かった」
「ええ。ホルトとネイルは、親友なのだと思います」
話しつつ、それほど多くない語彙をどれが相応しいのか、試行を繰り返す。
そしてようやく、見つけた。
「クレア。お前とは、同じものを旨いと思いたい。同じところへ行って、風が気持ちいいと思いたい。オレが生きる理由は、お前になった」
「ええ。ええ、素敵ですね。そうできたらいいなと、わたしも思います。わたしが生きる理由も、ネイルになりました」
言葉を区切るたび、クレアは頷いた。いつの間にか、ネイルの手を握りしめてもいる。
酸に汚れていなければ、彼女をぎゅっと抱きしめたかった。その代わりにそっと引き寄せて、互いに頰ずりをする。
「それから、同じものを見て笑いたい」
「ええ……いつか。必ず」
最後の希望には、声が沈む。嫌がってはいない。困難なことだからだ。しかし、必ずと言ったのは力強かった。
「そんな相手と生涯を共にすること」
「あん?」
「ずっと互いを思いやり、最も近しい相手で居続けることを結婚というのですよ」
なるほどそうか。また新しく、言葉の意味を知った。先に聞いたときはさっぱりだったが、たぶん今は正確に分かる。
だからまた、シリアスを許せない。さんざん悪口を言って、追い返さねば。
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