第九章:破顔は宝珠

第49話 ネイル-41 『突き通す志』

 ドゥアの助けは、まだ期待できない。囲んでいた敵を放置すれば、ネイルの背中を守れないから。

 もしも今すぐ現れたとして、目の前に居るバドウの行動が早かろうが。


「ネイル! ネイル!」


 クレアの声が降ってくる。何が起きているのか、彼女には想像もつくまい。教えてやりたくとも、痛みに食いしばった顎には難しい。


「クレア、喋るな……!」


 湧き上がる臭気だけでも、鼻腔が焼けそうに思えた。酸っぱさを遥か通り過ぎた刺激臭。獣脂を撒いた真の理由は、きっとこれだ。鼻が鈍ってさえいなければ、落とし穴の存在に気付かぬ筈がない。


「バドウ、やめてください! あなたの目的は、わたしの――げほっげほっ。わたしの命でしょう!」

「喋るんじゃねえ!」


 焼け付く空気に、クレアの声はすぐにかすれる。素よりか細い声だ、語気は強くとも途切れてまるで迫力がない。


「そうですとも。だからその鬼人は殺すなと? それは出来ない相談です」


 バドウは脇に備えていたナイフを抜く。数は二本で、薄く鍔がない。投擲用の、これも暗器だ。

 それを合図にしていたのか、両脇の岩壁の上に人影が現れる。黒く染めた布を被り、手には巻上げ式の弩弓クロスボウ

 あれならば威力が強く、ネイルの皮膚も貫かれてしまう。それが四人、こちらを狙った。


「仮に希望通り、鬼人を殺さなかったとしましょう。しかしその後、必ずこちらに向かってくる。結果は同じです」


 弓手がどんな相手か。顔が見えず、鼻も利かないいま、知る手立てはない。バドウが自らを囮にして、ネイルを仕留める仕掛けの一つだ。相当の手練れに違いない。

 腕には鱗の付いた手甲を着けているのか。それに気付いて、ネイルは覚悟を決めた。


「選択を誤らねば、また次も自由に選ぶことが出来る。一つ誤れば、その次は余地が狭まる。何ごとも、そういうものです」

「能書きはいい。射殺すなら、さっさとしやがれ」


 耳の近くで、ひきつけたような悲鳴が「ひっ」と小さく聞こえた。それから何か、「森の王には従わなくちゃ」などとも。


「分かりました。いたぶって遊ぶ趣味はありませんから、希望の通りにしましょう」


 さっと腕が挙がり、ふうっと息が吐かれる。その次の呼吸で、手は振り下ろされた。

 それを見ていたかのように、もぞもぞっとクレアが動く。押さえていた指を蹴りつけ、手の中から抜け出した。

 彼女は全身を使って、ネイルの胸を守る防具として晒す。


「クレア!」


 何ということをするのか。矢が当たらなくとも、酸の泥沼に落ちれば彼女の命はない。同時に、空気を切り裂く音が四つ。

 ネイルは慌てて、両腕にクレアを抱きかかえた。


「く、うぅっ。どうしてこんなことに……」


 短く太い四本の矢は、矢羽さえ埋まりそうなほど深く。四肢の付け根を射抜いた。太い血管は外しているが、満足に動くのは難しい。

 体勢を維持できなくなったバドウは、その場に膝をつき、前から岩に倒れた。


「無事か。ネイル!」

「お、おお!」


 弓手たちは岩壁を飛び降りる。人間であれば、下手をすると重傷を負う高さだ。

 だが彼らなら問題はない。仲間でも、彼らの身軽さは飛び抜けていた。


「リーズ!」


 六人で棲み処を出ていった蜥蜴人が、数を二人減らして帰ってきてくれたのだ。


「すまねえが、早く引き上げてくれ――!」


 まず軽いクレアを放って、受け止めてもらった。それから弩弓を手がかりに引っ張ってもらい、沼から脱出する。強い痛みはあるが、頑丈な皮膚のおかげで動くことはまだ出来る。軽い火傷というところだ。


「助かったぜ」


 岩場に横たわり、荒い息を落ち着ける。焼かれた皮膚が夜風に冷やされて、内側が燃えるように熱い。

 これでは踏ん張りが利かない。今日はもう、戦うのは勘弁願いたい。


「ネイル。まだ大事、人間」


 顔を見下ろす位置に立ったリーズは、そこにどかり座った。

 言いたいことは分かる。クレアなど手放してしまえば、こんな沼などどうということもなかったろうと。それをぐずぐずしているから、動けなくなるのだと責めている。


「ああ。お前らはオレの仲間だが、クレアとは違う」

「仲間、違う。何だ」

「仲間は仲間だが――オレはお前たちに頼りきっていた」


 混血メックの魔物は、純粋な種から迫害される。その上に能力も劣る。

 逆に優れているのは、意思疎通や理解力だ。ホルトはあえてそんな仲間を集め、強力な集団に育て上げた。

 ネイルは集団の成長過程で、足りない戦闘力を一人で賄った。だからいつしか、誰もがネイルなしでは独り立ちできないと考えていた。と、今は思う。

 けれども事実は逆だった。腕力しか能のないネイルに、みんなが働き場を与えてくれたのだ。

 小鬼に猪人に蜥蜴人。彼らが居なければ、ネイルはただ目の前にある何かを殴り続けていただけだ。

 そうであれば、もっと早くにホルトを失ったに違いない。


「また違えんだ。この島じゃ、クレア一人じゃ生きていけねえ。でもオレが手伝えば、生きられる。それは楽しいんだ、オレはな」


 彼女もきっと、楽しいと言ってくれる。思っても、勝手には言わなかった。リーズを前にしては、独りよがりになってしまう。


「分からない。違う、分かった」


 よく分からないが分かった。それはいつかの、不承不承とは違った。彼がどんな形に受け取ったか細かくはともかく、納得してくれた。

 ネイルにとっても、分からないが分かった。


「どこへ行く」


 さっと立ち上がり、リーズは仲間の三人と歩きだす。

 聞いてはみたが、分かりきっている。彼らは棲み処を出るときに、目的をきちんと言っていた。


「片付ける。残り」

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