第45話 ネイル-37 『彼女の選択』

 クレアは、目を閉じている。白く濁った、目の前に居てもどこを向いているのか分からない、瞳が見えなかった。


「侯爵家に生まれ、目の見えなかったのは幸運だったのか不運だったのか。庶民の家であれば、わたしは数日と生きられなかったでしょう」


 人間は細かな上下関係を用い、上位者を貴族と呼ぶのは知っている。それらが金銭や物資を牛耳って、下位の人間たちは余り物を奪い合うように生きることも。

 それだけ聞けば、魔物も同じだ。より強い者が日々を怖れることなく暮らせる。弱い者は、いつまで命があるか怯えて暮らす。

 だが人間の貴族という存在は、必ずしも強者でない。そこのところが、理解できなかった。


「ひもじくてお腹を鳴らすことはなく。着る物がなくて凍えることもなく。今日はどこで寝ればいいのか、屋根を探し歩くこともない。こんなわたしに、過ぎた境遇です」


 そうなのか、と。

 人間は生まれてすぐに、あの豊かな物に囲まれるのだと思っていた。

 腹が減って仕方がないのに、食う物がない。幼いころは、そんなことも当たり前だった。人間にもそんなことがあるとは知らなかった。


「ですがそれに甘え、何の教養も身に着けませんでした。シリアスさま、そんなわたしを妻にしたいと本気で仰られるのですか?」

「もちろんだ! バドウから貴女の人となりを聞いて、ぜひともと思った。決して不自由はさせないつもりだ」


 急な問いにも、シリアスは即座に答える。話しながら考える素振りもなく、逆にそれが軽薄と言えなくもないが。熱意と言うなら、相当なものだ。


「本当に? 侯爵家とのしがらみでなく。何かしらの策として、わたしを駒に置くのでない。誓ってそう言えますか」


 策略はネイルの好むところでない。考えてもうまい案の出てこないせいもあるが、何だか性分としてすっきりしないのだ。

 しかし素早い獲物をうまく捕らえる方法とか、手強い敵の弱点を突くとか、ホルトが立てた案には喜んで乗った。

 そのときのネイルは、逃さない為の壁とか破壊する槌とか。装置として扱われるが、それが良かった。


「……いや。言えない」


 今度は即答でなく、一度ならず視線を外しさえしてようやく答えた。その馬鹿正直な素振りだけで、否定であると誰も気付けただろうが。


「貴女の乗船が行方を失って、すぐに侯爵家からの使者があった。娘は無事に届いたかと、侯爵の書状を持って」

「父から――」

「ちょうど捜索の手筈を整えようと、大騒ぎしていたところだ。隠しようもない。我が家には、侯爵令嬢の暗殺容疑がかかった」


 姿を見てもいない鹿の肉を、食ったと疑われた。そんな話なのか。そんなものは事実であろうがあるまいが、証明のしようがない。何せ誰かが食った後なのだから、鹿肉はもうどこにもないのだ。


「使者の言い分はこうだ。『侯爵家との婚姻に不服を持つだけでなく、断りの為にクレアお嬢さまの命まで奪うとは。人の風上にもおけぬ』とね。敵対の意思ありとして、あわや戦となるところだった」

「そうしてサクレ男爵領を奪うのが、父の計画だったのですね」

「――おそらくは」


 詳しい事情はともかく、シリアスはクレアの親に陥れられたのだろう。だというのに「おそらく」と、肯定するのを彼はためらった。

 逆らいがたい上下関係。それが戦争という実力行使を避ける為というなら、ネイルにも分かりやすい。


「それはある。侯爵家と正面からことを構えて、我が家は抗しようもない。だが貴女を歓迎する気持ちは本当だ!」


 助けを求めて、シリアスはバドウに視線を送る。何か意志の交換があったのか、知れないが思い付いたように声を弾ませた。


「そうだ、彼も見ている。貴女の為に、我が家で揃えられる最高の品々を部屋に収めてある。たくさんの本も、読み書きに堪能な侍女もだ。貴女はそこで好きなように時間を過ごし、私の支えになってくれればいい」


 何が良いのか、優れているのか。嬉しそうに語る姿は、獲物を競い合う小鬼を思い出させる。食った量を争う、猪人というのも。

 蜥蜴人は、いかに美しく武器を尖らせるかだった。


「ああ――そこまで。ありがとうございます。わたしなどに、何とお礼を言えばいいのか」


 クレアは顔を伏せ、組んでいた両手を額に当てる。言葉通りに感謝を示しているのか、他の何かか、ネイルにはうまく見分けられない。


「わたしは人間です。貴族の娘として、あなたの妻となり、庇護を受けて生きるのが相応しいのでしょう」

「そうだとも。すぐにでもお連れしよう」


 シリアスの求めを受け入れた。クレアの声に彼は喜び、飛び跳ねんばかりだ。

 その姿に、苛とした気持ちを否定できない。人間は人間同士、共に在るのを良しと。それも分からないでない。

 ――けどな、そうじゃねえんだよ。

 クレアが胸にどう想うか、ネイルは知っている。不安はあって、早く言ってくれと動悸が激しい。


「ネイル、あなたは。わたしが残ると言ったらどうしてくれますか?」

「ああん? どうもこうも目に付いた獲物を食って、寝るのは岩か枝の下だ。お前はオレの肩で、雨風に文句を言いながら生きるんだよ」


 あからさまに、シリアスは嫌悪の情を顔に浮かべた。そんな生活はどうあっても嫌だと、言葉がなくとも雄弁に語る。

 それを尻目に、クレアは大きく頷いた。


「ええ。とても素敵で、幸せな生き方ね。わたしはずっと、この島の波音を聞いていたい」

「な――なにを! そんな野蛮な生き方がいいと本当に言っているのか!」


 今にも部下に、帰り支度をさせようとしていたシリアス。意外が過ぎて、うまく舌が回っていない。


「優雅とか野蛮とか、そんなことではないんです。わたしのやれることを懸命にしなければ生きていけない。この島がそうで、ネイルはそれを与えてくれるのです」


 だから自分のことは忘れてほしい。死んだものとでも思えと、クレアは告げた。


「そんな……」


 ――やれやれ、冷や汗が出るってのはこういうことか。

 安堵の息が、胸の奥から勝手に漏れ出た。それと共に、緊張もいくぶん途切れたかもしれない。クレアがこちらの居場所を察して、顔を向けてくれるのがありがたい。

 全くの予想外に、まだシリアスは次の言葉を見つけられないでいた。彼の部下も、同じようにクレアを呆然と眺める。

 海賊たちは、彼の部下が妙な真似をしないよう目を光らせてくれた。

 誰もが、そこから目を離した。決着は、まだついていなかったのだ。

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