第44話 ネイル-36 『竜たちの声』
十や二十の小竜、ではない。捕獲されたのをざっと数えても、三十は居た。それが次々、十歩ほども前で地を蹴って跳びかかってくる。人間や馬のような貧弱な生き物でなく、殴りつけても一撃では怯まないと予想がつく。
彼らの武器は強靭な顎。こちらの喉や腹などを狙い、噛みついた後に鋭利な爪で他の急所を抉るに違いない。蜥蜴に似た魔物は、得てしてそうなのだ。
「来いよ竜ども! 力比べといこうじゃねえか!」
だからまず、先頭の一体を受け止める。
抱えた首を圧し折りたいところだが、その間はない。思いきり下腹を蹴って、群れに押し返す。幸いに道は、彼らが二匹並んでやっとだ。
それで怯む気配は、微塵もなかった。
仲間を踏みつけ、押し寄せ、吹き飛び、後続に踏まれる。そしてまた、次の小竜が飛びかかる。
そのサイクルを、いつまででも延々と繰り返すつもりらしい。
ネイルの打撃は、小竜の動きを捌く以上の意味を持たなかった。もっと力をこめるなり、爪を使うなりすれば数匹はどうにか出来る。だがその後が続くまい。
手詰まりだ。どちらの体力が続くか、力比べでなく根比べであった。
「ドゥア!」
かつて縄張りを争った、宿敵の名を呼ぶ。が、返事はなかった。
その湾刀は抜かれていない。彼の武器である素早さや機敏さでは、正面から受け止めるしかないこれには対処不能だ。
それよりも、言っていた「考え」が重要だ。具体的に何をしようというのか、何が起こるのか知れないが、信じていい気がした。曖昧だが、勝機を決定付けるのは意外とそんなものだ。
きっとそれは、ドゥアの続けている呟きに依る。誇り高き古代竜を呼び、助力を願う声に。
「……待たせた」
ややあって、光が射す。
捧げ持つ彼の両手に溢れんばかりの――いや、爆発的な輝きが溢れる。虹の落ちる瀑布、とネイルの抱いた印象はそうだ。それには落ちる向きが、天地で反対だが。
踊るような光の奔流が、大河となって辺りを呑み込む。中心であるドゥアはもちろん、ネイルも、小竜も。
今や岩場は、煌めきを湛えた海と化した。シリアスの部下が持つ松明など、逆にそこだけが暗く思える。
光の中で、誰もが動かない。かといって縛られたような感覚は、少なくともネイルになかった。動いてしまっては何か大切なものを傷付けそうな、神妙な気持ちにさせられた。
喩えるなら、成体でさえ小さな小鬼が苦しみの果てに産んだ子を見たときのようだ。細く骨ばった母親の腕に、生まれたばかりのそれは鼠ほどしかない。ネイルはくしゃみでさえその儚い命を奪ってしまいそうで、いつもそっと立ち去っていた。
「ようやく竜珠の声が聞けた。小竜たちよ、俺たちは敵でない。ここは見逃してくれ」
いつもと同じ、低く抑えた声。少しばかりの緊張はあるのかもしれない。小竜たちは殺気を失い、これを聞いて顔を見合わせた。
竜たちの言葉なのか、ゲゲッと言い合う。この場に居た一匹残らずが二言ほどを発し終えると、先頭の一匹が首を曲げて頭を低くした。
「ゲルルルル」
喉を拡げた奥に響かせた、深みのある声。やはり何を言っているのかは知れないが、友好的なのは間違いない。
「そうか、ありがとう。また来る」
首すじをドゥアが撫でると、高くひと声を残して小竜たちは背を向ける。
トットットッ。と先ほどまでの殺気が嘘のように、軽やかな足取りで去っていった。
小竜が居なくなると、付近から音が消える。風も凪ぎ気味で、ときに吹いても揺らす葉さえここにはない。
いつの間に、眩い光は目に残光を映すだけになっていた。
「さて、貸しが一つだ。おとなしくクレアを返してもらおうか」
小竜を帰したのはドゥアだが、あちらからすればネイルもひと括りだろう。この際そんなことよりも、彼女を取り戻すのが最優先だ。
崖の上もまた入り組んだ岩場が続いて、逃げ込まれれば厄介なことになる。
「竜を従えた……だと?」
シリアスは、小竜を手懐けたドゥアに驚愕している。その隙に再び斜面を登った。
古代竜とのやりとりを知らねば、ネイルも驚いたろう。しかしあれは小竜が竜珠に恐れをなしたとか、きっとそういうことだ。
「おい、人間ども」
呆然とする人間たちに、いきなりの鉄拳を叩き込むことも出来た。そうしていればこの瞬間にも、クレアは戻った筈。
どうして急にそんなことを考えたのか、自分でも不思議だった。けれどもきっと、それ自体が答えなのだ。
――同族を殺せば、クレアが悲しむ。
「オレの要求は簡単だ。クレアを置いて、この島から出ていけ。そうすりゃあお前たちのことなんざ、綺麗に忘れてやる」
「それは出来ない。私は彼女を妻へ迎える為に、ここへ来た。クレア嬢は貴族の娘。これまで色々とあったようだが、生まれに相応しい場所を与えてやりたいのだ」
我に返ってすぐ。シリアスは、迷わず答える。その言葉は、まぶたの裏に書きつけてあるようなものではなかった。
少なくともその通り思っているのだけは、たしかなようだ。
「そうかい――」
大きく息を吐くと、それだけで彼らは身構える。その向こうに、か細いクレアの姿が見えた。
意図しているのか、彼女を制する為に部下たちは剣の腹を押し付けている。その景色に苛とするのは、慣れない感情だった。
――そいつは違うだろうよ。
クレアの気持ちを考えろ、と。そんな思いも初めてのことだ。
「分かった。それならクレアがどうしたいのか、聞いてみようじゃねえか」
「ふむ、なるほど。聞くまでもないとは思うが、それで君が納得するなら良いだろう」
シリアスは自信満々に言った。
ネイルには自信などない。代わりに不安もなかったが。ここまでして、クレアの本心は帰りたい、と。それでは笑い話にもならないと思い至った。
「クレア・ディス=フレド。貴女は王国貴族の娘として、私と人間の世界に帰るべきだ。しかしそれとも、この島で魔物の友として生きるのか。希望を教えてほしい!」
良く通る声。内容はともかく、聞き心地は嫌いでないと思った。シリアスもドゥアのように、この島で生き抜ける気がする。
ともあれ呼びかけは、クレアに聞こえた筈だ。海賊もシリアスの部下も、互いを警戒しつつ彼女に視線を向けた。
クレアは両手を胸の前に組み、小刻みに震えた。いつものように表情はなく、それでも息を呑む姿が、決意を感じさせる。
しんと静まる岩場に、やがて透き通る風のごとき穏やかな声が響く。
「わたしは……人間です」
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