第八章:人という種
第43話 クレア‐08 『此方と彼方』
婚約者。あらためてその言葉を聞くと、クレアの胸は苦しくなる。ネイルの声を聞いて飛び出してしまったが、自分の居るべき場所はどこかと思い悩む。
「なんだそりゃあ。食い物の名前か」
結婚という儀式。家同士の交わり。そんな決め事も存在しない土地の、人間でさえない男。
「私とクレア嬢は、結婚をすると決まっている。だからお迎えにきたのだ」
かたや男爵家の子。貴族は貴族同士と、決まりでさえない暗黙の約束。その実は強者と弱者の、栄達を目的とした契約。
しかしそれなら、こんな場所まで来る謂れはない。
「まずは二つ、謝ろう。一つはバドウも言った、この土地を騒がせたこと。もう一つは、君を悪しき魔物だと決めつけたこと。どうやら君は、クレア嬢を大切にしてくれたようだ」
「うるせえ、お前たちの話なんざ聞く気はねえ。クレアを返せ」
ぶん、と風が鳴った。シリアスの鎧が、激しく動いて音を立てる。きっとネイルが、拳を見舞ったのだ。避けていなければ、婚約者は吹き飛んだに違いない。
「若さま、危険です!」
「構うな!」
お付きの誰かが庇おうとして、シリアスは断った。捕らえられてすぐ、彼は言っていた。クレアと結婚するその日を、楽しみにしていたと。
「提案があるのだが、場所を移さないか」
捕らえられていた小竜を解き放ったのはこちらだが、今や共倒れの危機だ。安全な場所まで逃げないか。
ネイルの拳を避けつつ、シリアスは言う。
真っ当な話だ。火事のさなかには、その後の飲み水さえ気にするのはおかしい。あらゆることは、火を消してから考えるべきだ。
しかしネイルに、その理屈は通用しないらしい。止めようとするシリアスの部下たちを、次々に押し除けていく。
「それが勝手だ。どうするのも、オレを殺してからにしやがれ。オレの仲間を殺したように!」
迎えに来たと。決められた婚約者が目の前に現れたとき。クレアは従わねばならないと思った。
結婚は父の決めたことで、クレアを殺すことで何かしらの得があったのだろう。
つまりサクレ男爵家は、陰謀の被害者だ。具体的なことは分からないが、それ以外には誰の名前も出てこないのだから。
クレアが赴くことで、それが回避されるのなら。その為に、魔物ばかりの島へ踏み入ったのなら。
その義理には、答えるのが当然だ。これはクレアが、貴族だから思うことか。それとも母の言葉に依って思うのか。
どちらにせよ。人間とはそういうものだと、クレアは感じる。
「――待ってくれ! 君の仲間を殺した? 何のことだか分からない。たしかにここまで、襲ってきた魔物は倒したが。彼らのことか」
「とぼけるんじゃねえ!」
しらを切っているようには聞こえない。父の陰謀に逆らう為に来たのであれば、そんなことをする理由もない。
クレアを魔物の巣から救出する為に、とはあり得る。でも出遭った刺客は、はっきりと言っていた。「邪魔だから殺す」と。
「じゃあどうしてお前は、ホルトが死んだときに姿を消した。オレたちが離れるのを待ってたんだろうが!」
そうだ。最初にバドウが近付いてきたのも、ネイルが離れたときだ。
けれども執事は「それは違う」と否定する。
「ホルトとは、一緒に居た狗人のことかな。死んだとは知らなかった。私が君たちから離れたのは、はぐれたシリアスさまと合流できたからだ。代わりに君たちを見失ったけれどね」
「ああそうかい!」
バドウの話は、筋が通っていると思う。しかしネイルは聞く耳を持たない。それでもここまで、何か堪えていたように思える。あのとき棲み処で暴れたように、手足も牙も存分に使おうという様子がない。
それが大きく息を吸い。いよいよ声に怒気も満ちる。
「小竜が――!」
誰かが息を呑みつつ言った。ずっと聞こえていた地響きが、いつの間にかすぐ目の前になっていた。
強力に革を張った太鼓へ耳を付けたとて、これほどの音はすまい。大地を支えるという巨人が、地の底から抜け出そうとでもしているようだ。
「ちぃっ!」
大きな舌打ちはネイル。誰もが動かない中、彼だけが動いた。
「お前ら、逃げるんじゃねえぞ」
何をするのか。低く呻って、彼の巨体が動く。地響きの中にもひとつ激しく伝わったのは、ネイルが地面を蹴った為か。
おそらくそれは正しい。次に声が聞こえたのは、先ほどまでの崖下辺りだ。
「ドゥア、どうする気だ!」
あの海賊に、何か考えがあるようだ。ここからでは聞こえないが、ネイルとドゥアの会話はわくわくさせるものがある。
冒険の匂い、なのかもしれない。物語に海賊もまた、親しい登場人物だから。
「シリアスさま、今のうちです。機会を選ぶ猶予はございません。鬼人と話をつけるよりも、ご自身のお命を優先されませんと」
「ああ、それはそうだが……」
バドウが逃走を勧めて、シリアスは納得しつつも迷っていた。理屈として執事の意見が正しくとも、決めかねている。
同じ危機にある千人の市民を救うより、一人の貴族を救ったほうが後々の為になる。そんな逸話は、ある意味で正しい。当たり前だと豪語する貴族も少なくないに違いない。そこへもって、シリアスは違うようだ。
話を終わらせなければと思ったのか、逃げるなと言われたからか。ともかくネイルを置いて去るのを良しとしていない。この男の治める領地ならば、侯爵家のような境遇にはならない気がする。
――わたしはやはり、そこへ行かねばなりませんね。
人としての義理を果たすこと。
居場所を与えてくれた恩に報いること。
どちらを選ぶべきか、その答えが胸にはっきり刻まれた。生き延びたなら、自分で言おうと心に決めた。
「シリアスさま!」
「うむ、しかし……!」
最高潮に達した地鳴りが、ネイルの居るであろう場所と重なる。
「小竜の十匹や二十匹、オレが止めてやるさあ!」
その叫びさえ、巨岩同士が衝突したかのごとき轟音に掻き消された。
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