第40話 ネイル-33 『大切なもの』
「おい。意識はたしかか」
膝を突き、ドゥアが手を伸ばしてくる。握られた手拭いが、額に押し当てられた。ぐいぐい力がこめられて、「この通りだ」と見せられたそれは鮮血に染まる。
額に手を当てると、応急で布が巻かれていた。その上からなおも血が滲み出る。ここまでの流血は、今までにない。
「クレアはどこへ行った!」
たしかに朦朧としていたらしい。ようやく問う言葉が見つかった。上体を起こし、食いつかんばかりにドゥアへ迫る。
額の血が、びゅっと音を立てて飛び散った。
「……早々に女の心配か。重症だな」
呆れた言いざまの割りに、心底驚いたという顔のドゥア。そんな感想に付き合っている暇はなく、「どこだ」と重ねた。
「奴ら、お嬢さんだけが狙いだったようだ。とっとと逃げていった」
彼の親指が、通路の出口を示す。立ち上がると、二歩よろめいた。夜も見通す視界が暗くなって、数拍で戻る。
目をしばたたかせ、構わず歩いた。出た先に、薄い革鎧の男がまばらに倒れている。
首や胸など要所には金属の補強が加えられ、移動と戦闘と両方に対応したつもりらしい。
震える手で首を掴み持ち上げても、死体から分かることは何もない。
――こんなときに、ホルトが居てくれりゃあ。
その想いが、また額の血を噴き出させる。
「こんなところまで砲を持ち込むとは、相当の備えをしている。奪い返すのは
ネイルを撃った砲は、そのまま置き去りにされていた。その砲手を含め、倒れているのは五人。他に流血が、逃げたと思われる方向へ点々と続く。
追撃をしてくれたのだろう、ドゥアの仲間も数人が傷付いている。こちらは軽傷だが、まんまと逃げられたということだ。
「黒いのは居たか」
自身の頭を指さし、聞く。倒れているのはどれも、褐色の髪色をしていると気付いた。あの男が居たなら、目立った筈だ。
「黒――ではなく、藍の髪なら居た。知っているのか」
「知っててたまるか」
言い捨てて、血の跡を追っていこうとした。背にドゥアの声が「待て」と投げられる。
「待てと言っている」
「うるせえ」
無視して歩く前に、彼は走って回り込む。両手をこちらに向け、海賊にあるまじき隙を見せて。
「邪魔するんじゃねえ。奴ら、クレアを殺す気なんだ!」
「一人で行く気か? 貴様が追ってくるのは、およそ想定内だろう。死ぬぞ」
ホルトたちが嵌められた落とし穴。そこに網を落としたり、無力化する手並みはなかなかだったと認めざるを得ない。
あのときは目的が棲み処で、こちらの足止めが目当てだった。それを今度は、ネイルを負かす為に使ってくるとしたら。死ぬぞという忠告は脅しでなく、約束された未来の提示に思える。
だが――
「オレは、あいつと一緒に生きる。決めたんだ、クレアもそれがいいと言った」
「決めた……」
ホルトはいつも言っていた。仲間を大切にするのが、自分を生かすことだと。ネイルはそれを、否定してばかりだった。
――オレが間違ってた!
亡き相棒に、懺悔する。
「オレがうまいと思うものを、あいつにも食わせてやる。あいつが笑っちまうものがありゃあ、オレも知りてえ。だからクレアが死にそうって時は、オレの命なんざどうでもいい。それが仲間ってもんだ」
お前たちがどうなのかは知らないが、と。ネイルは新たに得た価値観を口にした。
自分でも、はっきりそうと考えていたわけでない。だが言ってみて、間違いないと思える。
己の命よりも大切なものは存在するのだ。
「野郎ども」
静かに。ドゥアは湾刀を抜いた。
切っ先を天に向け。彼の仲間をひとり一人、見渡していく。
「ここに一人の
すぐさま。その場の全員が、「おおっ!」と拳を突き上げた。
自身の頰を叩く者。頭領と同じく湾刀を掲げる者。食いかけの食料を、急いで腹に入れる者。それぞれてんでに、気合いを入れる。
呆気に取られて、歩き出したドゥアに一歩遅れた。すぐに追いかけ、並んで歩く。
「馬鹿者が。そうまで言うなら、貴様自身の命もお嬢さんと同等に扱え。この島で女一人は、どうにもならん」
彼は前を向いたまま、呟く。絶対に死ぬなと。
「うるせえんだよ。そんなこと、言われなくても分かってらあ」
「どうだかな。貴様はどうも、己の発した言葉の意味を分かっていないようだしな」
「ああん? 何のこった」
聞き返したが、答えの代わりに鼻で笑われた。以前のネイルならば、それだけで踏み潰したに違いない。
けれども今は、少し苛とはしたものの「まあいいか」と思えた。それは単に、比較にもならない怒りの対象が他に在るからかもしれないが。
「しかし貴様の言ったのは、仲間というよりも――」
「何だって? 言いたいことははっきり言いやがれ」
「何でもない」
それからしばらく、ドゥアは思い出したように独り言を言った。やはり聞いても、はっきりとした言葉にはしなかったが。
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