第七章:過去から今

第37話 クレア‐07 『海賊の雑談』

 足の長い絨毯。毛布からはみ出して、手を触れさせた。香料の臭いはしない。集う者たちが先刻食べていた、肉の匂いが少しうつっているだろうか。

 くたびれた感触の向こう。岩と取り違えそうな物体に当たる。

 輪郭をなぞり、それが腕だと知れた。先までは届かない。もぞもぞと動いて、彼の手を探り当てる。

 ――結婚が何かも、知らなかったものね。

 一本でさえ棍棒のような太い指が、どうやって指輪をくれたのか。クレアのさほど長くもない指で、指輪は三度止まった。

 きっと爪の先で、突いて動かしたのだ。滑る輪の脇に、尖った物がかすめるくすぐったさがあった。

 過ぎてみれば、ほんの僅かな時間。思い出すと、胸にむず痒さが満ちる。

 火照るようでいて、ちくちくと棘が刺す。罪であるかに感じる理由は、クレアにも思い至らない。

 ――サクレ男爵家は、あれからどうなさったのかしら。

 考えてみれば、男爵家の誰に嫁ぐのかも聞いていなかった。貴族の女にとって、結婚とは親が決めるものだ。己の希望や意思など介在しない。

 海賊に襲われて行方不明。普通に考えれば不可抗力だ。しかしあの父であれば、迎える側の不手際を責めることもあろう。

 だからとそこへ戻りたいとは思わない。元の予定通りに事が収まったとして、どうせ圧力をかける窓口にされるだけ。

 そうでなくとも、お高くとまった貴族の屋敷はこりごりだ。

 ――その方が迎えにでも来られたら、帰るしかないでしょうけどね。

 男爵家が諦めたものを、女ひとりでどうもできはしない。あり得ない妄想で、自分の今を正当化する。

 嫌な女だと、クレアは己を貶した。


「お嬢さん、名前を聞いてもいいかな」


 背中の側から聞こえたのは、ドゥアの声。床よりも少し高い、ちょうど地面に座ったくらいから。

 起き上がる気配はなかった。するとクレアが、ネイルにちょっかいをかけるのを見ていたことになる。

 熱くなる頰を手で押さえ、身体を起こそうとした。


「いや、そのまま。まだどいつも寝ている。俺は目が覚めちまって、暇潰しに付き合ってもらおうと思っただけだ」


 そのままと言われても、誰かと話すのに寝転んではいられない。急ぎつつも手を滑らせないよう、のろのろ上体を起こす。


「お待たせをして申しわけありません。わたしは王国が貴族、フレド侯爵の娘でクレアと申します。旧帝国からすれば、叛乱を起こした末裔に当たります」


 裾を美しく。決して下半身の肌を見せないように。教わったのは随分と昔のことで、意識せずともそのように手脚が動く。

 ただ「美しく」とか「見せない」とか。観察者の視点に立てと言われても、無茶なことをと思う。

 当時はそんな生意気を覚えることなく、言われるがまま果たそうとした。

 ――当時? いえ今でもわたしは、それが当然と思っている。理不尽なんて考えるのは、たった今まで一度もなかった。


「さっきも言ったが、帝国がどうこうは俺に関係ない。ここに居るのは、魔の島近海に暴れる海賊さまさ」


 小さく、薄く。笑う息が漏れたのは、嘲笑に聞こえなかった。


「お嬢さん。貴女を担ぐ男が何者か、知っているのか? そいつの身体が硬いのは、お姫さまに緊張するからではない」

「鬼人とお聞きしました。とても大きいし、人間と違うのは分かります」

「それならなぜ、おとなしくしている? 町までくらいなら、うっかり送ってやることもできる」


 なぜ。

 それはクレアが聞き返したい言葉だ。ネイルはこの男に、「最後の仲間」とたしかに言った。

 だのにどうして、クレアにも聞くのか。


「わたしは侯爵の子で、女です。その上に目も見えません。父や私の面倒を見てくれる人たちの言い分に従うのが生きる術で、生きる意味だと思っていました」

「ああ、なるほど。それでそいつが、好き勝手にする楽しさを教えたのだな。籠の鳥には、さぞかし広い世界だろう」


 うんうんと頷く気配。その下で、湾刀の鞘が外される。まだ眠りこける男たちのいびきの中、刃の滑る冴えた音が耳に刺さった。


「だがな。その自由は、次の瞬間に死ぬことと背中合わせだ」


 あえて風を鳴らし、刃先がこちらへ向けられる。感じている気配では、互いの距離はまるで届くものでない。

 しかし喉元に突きつけられたような、冷たい殺気が一点に集中する。

 殺されるとか、逃げるとか、何をも考えることができない。動くなとさえ言われていない無言の圧力に、心身が縛られた。


「いや、すまん。思った以上に感覚が鋭いようだ。貴女を傷付ける気はないから、安心してほしい」

「……はい、平気です」


 刃が納められる。首を締め付ける苦しさに、慌てて手拭いを外したような解放感。冷えた喉や頰へ、急に血が通うところなどそっくりだ。

 遅れて胸が、激しく存在を主張し始める。


「俺もそいつの素性を、詳しくは知らん。存在を知ったときには、もう大勢の頭になっていた。混血メックというのも、他から聞いた」

「人間との、ですか」

「そうだ」


 大陸にも魔物は居る。運が良いのか、悪いのか、襲われて街まで逃げ延びた女性の話を聞いたことがあった。

 産まれた子は、すぐその場で殺された。魔物は存在そのものが悪で、そうするしかないのだと。


「そういう生まれは、この島でもはみ出し者だ。孕ませた親は産まれたことさえ知らんし、女のほうは腹に居るうちからその子を忌む」

「だから小さな子たちを育てていた――?」

「言い出したのはホルトだがな。惜しい男だ」


 あの棲み処での時間は、クレアにとても温かかった。あそこでなく、いきなりネイルと二人きりであったら、彼の印象は違っていたかもしれない。


「敵よりも強い立場で、獲物を狩り続ける。奪い続けるのが、この島で生きることだ。それをこの鬼人はよく知ってるし、だから俺もそいつを叩きのめそうとは考えなかった」

「やりすぎれば、互いが消滅してしまいますね」

「そういうことだ」


 理解が早いと、おだてはさておき。もう一眠りするとドゥアは横になった。それから「そういえば」と、いかにもついでのように付け加える。


「鬼人でなく、人間でない。とても目立つが、奪うでない。それが通用しないことは多々ある筈だ。この辺りは平和そうだから、要らん世話かもしれんがな」


 わざとらしいあくびが聞こえて、ドゥアはそれきり黙った。

 通用しなければ、どうしろというのか。クレアがネイルの盾になるなど、叶うはずもない。

 言われたように、要らぬ世話であり続けてほしい。そう願いクレアは、ネイルの胸板にすり寄っていった。

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