第30話 ネイル-25 『魔物と人間』
「おい、女。お前はオレを怖れないな」
続く夜のこと。ようやく少し眠れて目覚めると、脇にクレアが眠っていた。それが何とも、奇妙に思えたのだ。
だから彼女が目覚めて、すぐに問うた。事実の確認でなく、珍かな体験の反射でなく。
表情に顕れない感情が、そこにあるのか。あるのなら、それにどう想うのか。知って、解きほぐす為に。
クレアにすれば、今さら聞くかと思うのかもしれない。ネイルとしても、出会って最初の数日には感じたことだ。
目が見えぬのだから当たり前、と考えていたせいではある。けれども実際は、成り行きという面が大きい。
大勢の仲間が居る中で。常に三人が顔を突き合わせる中で。あらたまって、その問いを発するのは難しかった。
「怖れはありました。お声が大きいし、物も命も奪うと聞きましたから」
「そう見えなかったがな」
身勝手な言い分ではある。当人がこうだと言っているのに、傍からそう見えなかった理由を説明せよと。そんなものは、見る側の主観でしかない。
関わらずクレアは、思い出すから待ってほしいと額の端へ手を当てた。
ときにそのまま、細い指が櫛として髪を梳く。一本一本に書き込まれた出来事を、読み取ってでもいるように。
「船で、人の最期を多く聞きました。それは声であったり、切りつける音であったり、倒れる振動であったり。けれど終いは、遠かった筈の波音だけになりました」
断末魔は声だけと限らない。それらを聞いて、怖ろしい思いをした。それくらいなら分かる。
しかしそうではないと、クレアは首を横に振った。
「それも怖ろしかった。世界が呑まれたのかとさえ思いました。でも本当に怖かったのは、残されたのがわたしということ。わたしはわたしを救えません」
どういうことか、繰り返し。よくよく聞いた。不自由な自分でなく健常な者であれば、当人や他の誰かを救えただろうに。そうでない事実が怖かった、と。
クレアは両手を握り合わせる。
「意味が分からねえし、オレと関係があるのか?」
「あなたにさらわれて、温かかったから。包まれた毛布も、与えられた食事も。そこに居た子どもたちも」
指を伸ばして触れると、クレアも手を伸ばした。手のひらを探り当て、頰に引き寄せる。人間とは違う、硬いばかりの肌なのに。
「あなたはあの場所の王だった。人間の仕組みと同じに考えては不愉快でしょうけど。あなたほど公平で、みんなの望むものを与える王は聞いたことがないわ」
「オレに従えば、長生きできる?」
それなら分かる。魔物の半数ほどは、きっとそうだ。逆らっても勝てない相手に勝つ方法など考えない。ホルトのようなのは珍しい。
けれどもそれでは、これまでクレアが言ったことと反する。彼女は己の命に価値などないと断じている筈だ。
「いいえ、あなたが決めてくれたから。わたしが為になれる、誰かになってくれた。あなたに仲間と呼ばれたいと思った」
だから、怖くなどなくなった。怖れていては、機会を逸してしまうから。ネイルの為になる、何者かになりたい。
その言葉は、先から尻までが鋼の槍のようだ。重く、何をも貫こうとするが、しなやかでない。
「いつか、命を賭してでもあなたのお役に。そう思うわたしを、あなたが人間でなくしてくれました」
「……お前の聞いたことだが、お前はその為に生きるってことでいいのか」
「きっとそうだと思います」
あのときネイルは、自分を納得させられなかった。自分が生きる為とは、結局なんの目的でもない。
ホルトは仲間が居るから生きられると言った。これからそうするとクレアが言っているのも、きっと同じだ。
「お前は人間だ」
「仲間には、なれませんか――?」
鬼人と狗人と。蜥蜴人や他の魔物たち。人間と相容れないのは事実だが、なぜなのか。
これまでネイルが、してやられたと思う相手はどちらにも偏らない。だのになぜ、人間だけを。
人間の生み出した物と人間の罪は別だと言いながら、罪とは何か説明はできない。
――ああ分かんねえや。オレはやっぱり、頭が悪い。
「おい、クレア」
「……はい?」
返答には、少しの間があった。声を発してさえ、呼ばれたのは自分だったかと窺う素振りがあった。
「人間を目の敵にするのはやめた。よく考えりゃあ、そんなことしたって疲れるだけだ」
「はい、ではこれからどうしましょう」
望み通り、仲間と認めたのに。名を呼んだのは、その印でもあったのに。クレアはなかったように動じない。
内心は知れないが、面白くない。ネイルなりに、いくらか決意して呼んだのだ。これまで「人間ごとき」と、蔑んだ相手に。
「人間の全部を目の敵にはしねえ。だがな、仲間の仇だけはとらせてもらう」
「当然のお気持ちと思います。わたしはその間、どうしていればいいですか?」
それはネイルも少し悩む。
だが決めた。クレアを仲間と認めたのだ。彼女を守ると決めたのだ。どこかに隠して、朽ちさせるのを仲間とは呼ばない。
「着いてこい、クレア。まずドゥアのところへ行く。人間のことを教えてくれ」
「分かりました。分かりましたとも。どこへでも、どこまででもお連れくださいませ」
僅か、声が弾んだように思う。
けれどそれでは駄目だ。仲間として相応しくない。いつか彼女には、ネイルにも負けぬほどの声で笑ってもらわねば。
嬉しければ笑い、哀しければ泣く。たぶんそれが仲間なのだ。
彼女の手を取り、立ち上がらせ。腕に抱える。夜に新たな旅立ちを踏み出した。
それは生きる目的を探す、第一歩でもあった。
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