第29話 ネイル-24 『驟雨来たる』
明けて、今度は眠れぬ一日が訪れた。
動く気にならず、クレアを傍らに寝そべって過ごす。ホルトのことは、考えないようにした。
次の日には、雨が降り始めた。肌に触れればパンと弾ける、強い雨が。
「太陽の涙、ですね」
「なんだそりゃあ」
ネイルの首や肩を撫でていたクレアも、ずっと口を開かなかった。しばらく振りに話したと思えば、また分からないことを言う。
「太陽神は、とても恥ずかしがり屋です。いつも強い光を放って、自分を直視させないように。だから泣きたいときも、いつも我慢をします。でも耐えきれなくなると、こうして一度に吐き出します。厚く雲で顔を隠して」
その通り、雲は厚い。だがこうやって集中して降る雨は、たまにある。夜に降ることもあって、太陽神がどうと言うならそれはおかしい。人間が行う神への信仰というのは、どうも意味不明だ。
「お前は、おかしなことばかり言う」
「おかしなこと――言いましたか?」
「今のがそうだ。それにあれだ、何だか変な独り言をする。妙なところで言葉を区切ったり、発音を上げたり下げたり」
思い当たらない様子のクレアは、二度ほども「うぅん?」と首を傾げた。そうしてようやく、「ああ」と頷く。
「眠れ、良い子――」
「それだ」
短く呟かれた音に、即答する。何十年も生きたネイルに良い子とは、どうにも不釣り合いだが。
なぜか、ほっとする。胸に絡んだ鎖を、断ち切ってくれはしない。けれどもフッと軽くなった気がした。
「鬼人にはないのですね。これは歌です。気持ちのいい音の流れに合わせて、自分や誰かの想いを乗せるのです」
「想いを乗せる? 何の為に」
「何の為に――うぅん、きっとそのときの気持ちを、いつでも思い出せるように。聞いた人が、自分も同じだと感じられるように」
聞いてもやはり、分からなかった。しかし歌というのは悪くない。
「人間ってのは器用なもんだ。オレには考えもつかねえことをやる」
「人間は、お嫌いなのでは……」
「オレが人間を嫌うのと、人間の作る物がいいってのと。どういう関係がある?」
人間の作る酒。特に麦酒。あれより優れた飲み物は、なかろうと思う。
それに山羊やら鳥やらを、飼って増やす。その肉からという燻製など、どうすれば作れるのか想像もできない。
奴らがどうであろうと、その事実は歴として存在するのだ。
「関係、ありませんね。だからあなたにも、きっと歌えます。お教えしましょうか?」
「オレにも歌えるのか?」
温かな眠気を誘う、クレアの歌。魔法でもかかっているのかと思ったが、そうではないらしい。
種があるとすれば、彼女の声か。甘ったるいそれが優しげに言えば、多少のことはまあいいかと。
明らかにそれと違うネイルの声で、同じになるのか。あまり乗り気にやると言って、出来なければ悔しい。
「気が向いたらな」
「そうですか」
気が向いたらと言ったのに、クレアは歌い始める。すぐにやめさせようと思ったが、とりあえず最後まで聞いた。
「腹あ減ったな」
「そうですね、わたしもです」
ほら穴の外は、地面に跳ねる雨で白く煙る。この中へクレアを連れ出せば、弱ってしまうだろう。
だが一人で置いて大丈夫だろうか。
「女、何か狩ってくる。待てるか」
「お待ちしてます。いってらっしゃいませ」
「奥に隠れてろ」
ほら穴を少し入ったところに、剥き出しの岩がいくつかあった。その陰に隠れていろと言って、それだけでは足らない気がする。
一つでもクレアがすっかり隠れる岩をいくつか積んで、彼女が自由に出入り出来るようにした。一見すれば、落ちた岩が重なっているだけだ。
「おとなしく隠れていますね」
クレアが手探りで潜り込むのを見届け、穴を出る。数歩進むごと何度も穴を振り返り、早く狩らねばと焦った。この雨では獣も巣穴に篭っているだろう。
しかし幸い、獲物はすぐに見つけた。雨宿りをしていた猪だ。一撃で頭蓋を砕き、掴みあげる。
雨粒と枝葉が邪魔で、ほら穴が見えない。胸がざわついて、脚が早まった。
穴を出て、どれほども経っていない。何なら先に岩を触っていたほうが長かった。分かっていても、ぬかるむ土を罵倒しつつ走らずにはいられない。
穴の入り口に戻って、猪を放る。手前から奥を順に眺めたが、新たな足跡は見えず誰の気配もない。
「おい!」
思わず声が出て、返事がないことに背を冷たくした。駆け寄って、もう一度呼ぶ。すると、返事があった。
「居りますよ」
ごそごそと出てくるのがもどかしく、積んだ岩を剥がす。腰を掴んで肩に担ぐと、ようやく落ち着いた。
「おかえりなさいませ」
「――猪が獲れた」
平静を装って猪のところへ戻り、手の届く距離にクレアを座らせる。
「お前はどこを食う。脚か?」
相棒のように小綺麗には捌けないが、食ってしまえば同じだ。せめて希望くらいは聞いてやろうと思った。
「あ――」
「どうした」
「いえ、何でも。脚をいただけるんですね」
明らかに、何かを気にした。もう一度聞こうとして、彼女の異変に気が付いた。しきりに首や腕などを手でさすっている。
「首をどうかしたのか」
「それが、穴の奥に羽虫が居たようで」
羽虫が居ると、どうかするのか。聞く前にクレアは袖を捲って腕を見せる。衣服の白とはまた違った、煌めくような白い肌。そこに小さな赤い点が、十も二十もあった。
「痛いのか。今まで平気だったじゃねえか」
「え、と――」
あんな小さなものに傷付けられるなど、予想の範疇にない。それはさておくとしても、棲み処からここまでの道中、いくらでも居た筈だが。
答えを渋るクレアに、苛々と似た何か別の感情が湧く。何というものかはっきりしないが、渇く思いだ。
「何だ、言わなきゃ分からねえ。言えば叶えてやる。言え」
「……痛くはありません、痒いです。平気だったのは火、だと思います。今までは火があったので、虫が逃げていたのかと」
聞いて、言葉が出ない。
火を用意していたのは、ホルトだ。ネイルも火の熾し方は知っているが、やったことがない。むしろ余計な手間をかけるものだと、半ば呆れていた。
そうではない、ホルトは仲間の為に。そしてクレアの為に、わざわざ火を焚いていたのだ。
「それに人間は、焼いていないお肉を食べると身体を悪くします」
「そう、なのか――?」
知らなかった。クレアを連れていくのに、ホルトは抵抗を示していた。だのに彼女のことを分かっていたのは、彼のほうだった。
愕然としつつも、クレアの願いを叶えてやらねば。そう思い、背負い袋に目を付ける。
「おい。その袋をよこせ」
後ろを向かせ、そっと肩ひもを外す。これはホルトが用意したものだ。きっと何か、役に立つ物が入っている。
口を開け、逆さに振った。火打ちがあればいいと願って。
「こいつは――」
それはあった。彼がいつも使っていたのとは別の、ネイルにも扱える大きな物が。
その他には、干し肉。燻製。チーズ。パン。保存の効くものばかりだ。これならどうかと、クレアに匂いを嗅がせてみる。
「大丈夫、火を通さなくても食べられる物ばかりです」
頭の良い相棒の置き土産に、もう何も言えなかった。それに雨のせいか、今日は湿って火を扱えそうもない。
腹いっぱいに食った猪肉は、いつになく塩辛かった。
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