第28話 ネイル-23 『嵐を退く歌』

 盛夏の日差しを存分に浴びきった落ち葉は、濃くした茶色の表面に薄く白を纏う。横たわった狗人の周囲だけがさらに黒を被り、あたかもそこだけ雨を降らせたようだった。


「ホルト……?」


 愛用の槍は、力ない手のすぐ先に。美しい牙を剥き出して、口は開いている。土で化粧をしたグレーの毛並み。白毛も混じって、雪を降らせる雲のようだ。すると落ち葉は、雪化粧をしているのかもしれない。

 その景色。雲の中に、大輪の花が咲く。

 彼の手のひらほどに大きな花びらで。都合、七つ。もう十分だというのに、花は未だ成長を続ける。

 じわり。じわり。

 真新しい赤が、ゆっくりと。だが休むことなく、白を侵す。それ以外に、動くものはない。ネイルも、クレアも。

 何より、ホルトが。


「ホルトぉぉぉ!」


 絶叫が、浮いた落ち葉を散らした。枝葉が揺れ、小さな獣たちの逃走を促す。遠く鳴いていた夜鳥の声も消え、夜の森はしばしの静寂を迎えた。


「……ホルトに何か」

「死んだ! オレの相棒が!」


 察しているのだろう。はっきりとは言わないが、窺う口調のクレアに怒りが溢れる。

 肩の彼女を地面に引き摺り下ろし、尻もちをつかせた。「ぐっ!」と悲鳴を上げず、声を押し殺すのがまた腹立たしい。


「お前のせいだ! お前の同胞が! 人間が! 薄汚え奴ら! あの貧弱な人間どもが! オレの相棒を殺しやがった!」


 指をつきつけ、思い付くまま罵った。素より口は達者でなく、すぐに言葉を尽かせてしまうが。

 ひしゃげたような格好のまま、クレアはこちらを見上げる。見えてもいない濁った目で、見えているようにネイルの目を。


「殺す。オレは殺すぞ。人間どもを。目につく限り、どうやってでも探し出す。手足を引き千切って、血塗ちまみれに!」


 なぜだろう。言えば言うほど、胸の辺りに違和感が膨れていく。胃袋がもう一つ増えて、空っぽのまま大きくなるような。はちきれそうなのに、そこからいつまでも苦しいままで。

 虚しく、それでいて重々しい。


「殺してください」

「ああん!」

「人間を殺せば気が晴れるのなら。それがわたしで良いのなら、殺してください」


 起き上がりかけた腕を広げ、クレアは地面に寝そべる。抵抗しないから、胸でも腹でも、好きなところを突けというように。

 目は空に向かい、その通りそのまま動かない。

 ――何で目を逸らす。ホルトもお前も、どうしてオレを見ない。

 そうだ。この女も人間だ。この女のせいで、仲間たちが。ホルトが死んだ。だから最初に殺すのは相応しい。

 そんなことを考えた。彼が死んで、人間が憎くて、クレアが殺せと言った。それを思うと、当然だと考えた。

 ――殺せるわけねえだろ……。


「ぅおおおぉぉ!」


 考えることとは反対の、気持ち。

 どちらが大きいのか、ネイル自身には判断の必要もない。けれども認めたくないと、それが声となった。

 吠えて、走る。クレアを拾い、胸に抱き。草を弾いて、樹木を薙ぎ倒し、岩を砕いても、彼女が傷付かないように。

 方向を定めたつもりはない。しかし北へは戻れず、南と西には人間が待ち構える。すると残るは東しかなかった。

 走って、走って、走った。いくら人間が知恵を絞っても、奴らの脚ではネイルに追いつけないのだから。

 遠く離れれば、撒くことが出来る。ネイルが逃げたのは、幼いころ以来何十年ぶりだ。


「うっうぉっ! うぉぉ!」


 ちょうどいいほら穴を見つけて、その奥へ潜った。

 足を止め、クレアをそっと下ろし、湧き出た己の声に戸惑う。鳴く練習をする鳥のようだ。

 膝から力が抜け、クレアの前に頭を伏せた。見える筈の地面がぼやけ、鼻やその奥が熱い。


「なんだ。なんだよ――」


 目を擦ると、手が濡れた。拭いても拭いても、いくらでも水分が溢れ出る。声も震えて、うまく言葉になっていない。

 ホルトが死んだ。その言葉だけだった気持ちに、彼の姿が浮かび上がる。思い出そうとせずとも、勝手に。

 最初は彼と二人、弱い獣を選んで狩った。それがうまくいって食うに困らなくなると、世界で一番強いくらいの気持ちになった。

 だがすぐに、獲物を横取りする奴らと出遭った。殺されたくなければ、獲ったものは全部よこせと。

 何度かは応じて、隙を見て逃げた。しかしどこへ行っても相手が替わるだけで、その繰り返しだった。

 ネイルが一端いっぱしの体格になると、ようやく脅されることはなくなった。代わりにもっと強い者から、殺されそうになったが。

 人間を襲えば、大量の獲物が手に入る。そうと知って、やってみた。

 たまたま数が少なかったせいもあるが、人間は弱い。それなのに食いきれないほどの食料を持っている。

 食料以外の人間の持ち物を欲しがる者も居て、引き換えにまた食料や武器を手に入れることもできた。

 考えついたのはホルトで。そうやって安定して狩りが出来るなら、仲間を増やそう。そう言ったのもホルトだ。


「ホルトぉ……」


 ふと気付くと、濡れた手をクレアが両手に抱えている。彼女は指に頰ずりをし、唇を当てた。


「ネイル――泣いているのね」

「泣く? オレが?」


 泣くとは何か。言葉の意味は知っている。殺されそうになった人間が、助けてくれと叫びながら表す感情だ。

 声を震わせ、涙を流す。言われてみれば、同じかもしれない。


「あなたのこれは涙。大切なホルトを失って、彼の為に流す優しい気持ち」

「ああ。ああ。ホルトはオレの相棒だ!」


 クレアを掴み、頰に寄せる。しばらくの慟哭を、存分に聞かせた。

 やがて、どれだけ経ったのか。

 ようやく感情の波が弱まり、荒く上下する胸に深く息を吸い込んだ。

 力余って、クレアを握り潰しはしなかったか。遠慮なく上げた声は、耳をどうかさせなかったか。

 様子を窺うと、クレアが何か話しかけている。きっと、ネイルが泣いている間ずっと。細い声で、妙な抑揚を付けた話し方。普通に話すのとは、区切り方も違う。


「眠れ、良い子。夜のとばりが、いくら怖ろしくても。わたしが、全て。全て、あなたを守ってあげる」


 ――あの変な独り言か。

 内容はもしかして違うのかもしれない。けれども出会った帆船で聞いた、あれだ。

 変な人間の妙な話しかけで、胸を襲った暴風雨が過ぎ去っていく。ネイルは安く、眠気を感じた。

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