第23話 ネイル-19 『豊かな土地』

 細かに飛沫が上がり、クレアを包む。


「ね、ネイル。小さな魔物が暴れています」

「そいつは魔物じゃねえ。魚ってんだ」


 鬼人の指、一本分くらいの小さな魚。滝のある淵でそれを見つけ、戯れに掬って投げた。


「これがお魚――こんな形をしているんですね。それに、ぬるぬるしてる」


 あんなものでは百匹ほどもなければ、ネイルの腹の足しにはならない。だが人間の小娘をからかうには、ちょうど良かろう。


「ネイル、あんまり水を掻き揚げねぇでくれ。火が消えちまう」

「火だあ? 魚だろうが肉だろうが、そのまま食やあいいんだ。最近どうした」

「どうもしねぇけど――あぁまた。仕方ねぇなぁ」


 ぶつぶつ言いながら、ホルトは火を囲う為に石を積み上げ始める。

 山を越えてからまた二日、方向も定めずに気の向くまま歩いた。

 人間の造った果樹園かというほど、実のなる木が集まった森。水棲の獣や鳥たちの集う水場。うまそうな獣が縦横無尽に走り回る平原。

 どこへ行っても、そこが棲み処でいいのではと決めたくなるような場所ばかりだ。

 そうしなかったのは、他にもあるのではと思うから。欲と言えばそうだが、慌てて決める必要はない。


「ネイル、焼けたぞ。戻ってこいよぉ」


 大小の魚を獲り続けていたネイルは、ようやくそこで「おう」と切り上げる。

 ホルトとクレアの食べる魚は、最初のひと掻きで賄えた。その後は全て、ネイルの腹に入れる分だ。

 自分以外の者がどれだけの量を食べるのか、知らなかった。人間はともかく、ホルトのことも。

 彼とクレアで、最初に獲った鹿の脚を食いきれなかった。いやそれどころか、膝から足先まででたくさんだと。

 クレアに至っては、ネイルが指の先に摘むほどしか食べない。そんなものでよく動けるなと、逆に感心する。


「あの。このお魚も、焼いていただけますか。せっかくネイルが獲ってくれたのだから、わたしが食べたいです」


 おずおずと言うクレアに、誰も答えない。誰もと言っても、彼女を除けばネイルとホルトしか居ないのだが。

 しかも火の番をしているのはホルトだ。彼はクレアが話しかけても、返事をしないことが多かった。何度か繰り返したり、名指しで言えば別だが。


「食いたいなら、そのまま食やあいい」


 人間を連れ歩くこと。しかも仲間を失う原因となったクレアに、まだ納得をしていないらしい。

 それに気遣いというほどのことはしないが、強硬に「その態度をやめろ」などとも言うつもりはなかった。


「焼いてやる」


 短く言って、クレアの両手に載った魚が鷲掴みに取られる。ぎこちない動作だが、乱暴をするつもりは見えない。


「ホルト。いつも食事を、ありがとうございます」

「――そうかぁ」


 悪意に曝され続けたというクレアが、狗人だからとその心情に気付かぬ筈はないだろう。しかし彼女には感情が薄く、言葉にもそれを出さない。

 ――妙な感じだな。

 と思うものの、結局ネイルも取り繕うという概念がなく、そのままだった。

 どんな怒りも、日々生きるのに必要ではない。いつか消え去るものだ。抑えることが叶わないならば、ホルトもそう言うだろう。

 このまま三人で気ままに歩き、何となく「まあいいか」と足を止めたところへ棲む。そこに飽きれば、また次へ行けばいい。

 ネイルはぼんやり、そんなことを考え始めていた。


「ホルト。お前はどんなところへ棲もうと思う?」

「えぇ? 急に聞かれてもなぁ」


 回答の代わりに、枝に刺して焼いた魚が渡された。ネイルはそれを、クレアに回す。自身の右手には、生のままの大きな魚をまだひと口残していたから。


「うぅん、そうだなぁ。ここいらを見ると、前みてぇにたくさんで居る必要はなさそうだなぁ。でも何人か、気の合う奴は入れてやりてぇ。七、八人で棲めるのがいいなぁ」


 気の合う奴。ホルトのようなと言うなら、そんな誰かが他に居るとは思えない。

 だが前の仲間たちのように、それぞれ想いはありながらも同じ場所に居られる。そういう者が居る環境を、否定する気はなかった。

 獲物をたくさん集めたり、交代で狩りをしたり。大勢で居る利点は、身の安全だけではないのだから。


「仲間なあ。入れてやってもいいが、居るかな」

「無理に探さなくてもいいさぁ。居れば順番にってことだ」

「ああ、そうだな。で、お前は?」


 視線と共に問うたのだが、クレアは答えない。いつものように目も耳もこちらに向いているのに、肝心の口はもぐもぐと、小さく何度も魚を噛んでいる。


「女。お前に聞いてるんだ」

「あら――やはりわたしですか。わたしがそんな希望を言うなど、おこがましいかと思いまして」


 遠慮、という言葉を知ってはいる。

 仲間と獲物を分け合おうというのに、量が足らない。そんなときに必要なことでもある。

 けれども今、彼女が遠慮すべきは何もない。どうしてそんなことを言うのか、少し苛とする。

 決して「おこがましい」という言葉の意味が、分からなかったからでなく。


「わけの分からんことを。聞いたんだから答えりゃいい」

「分かりました。考えます」


 まだ半分残った魚を膝に置いて、クレアは考える素振りをした。

 最初は白かった服も、随分と汚れている。人間はよく服を取り替えるが、クレアもそうしたいのだろうか。


「そうですね……すみません。考えたのですけど、これと言って思いつきません」

「ああ? 何か一つくらいあるだろ」

「いえ。ネイルの肩に乗せてもらって、ホルトがお肉やお魚を焼いてくれる。これ以外にどうしても必要な何かなんて」


 でも思い付いたら言いますね、と。

 クレアの言い分が遠慮なのか、本心なのか。ネイルには判別がつかなかった。

 そんなつまらないことが本心なのかと、疑う気持ちはあったが。ネイルとは考え方がまるで違うのも理解したので、疑いきれなかった。

 それに意外と強情なのだ。これを「正直に言え」と強要しても、求める答えは出てこない。

 どうせ今日は、もうここから動くつもりはない。互いに話す以外に、やることもそうないのだ。

 ――また聞いてみるさ。

 夜の静けさに、離れた滝の音だけが賑やかだった。いや夜行性の獣の足音や、夜鳴く鳥の声もしているが、圧力が違う。

 同じリズムの繰り返し。実は違うのだが、そう思えるほどなだらかな音の運びだ。


「……荷物を持て」


 その中に、異質なものが混じり始める。

 自分の体積以上の藪を押し退け、揃わない足音。複数で集まった、人間がやってくる。

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