第22話 ネイル-18 『受入れる心』
昼間は眠り、夜を歩いた。失せろと告げたバドウも、未だ距離を保って着いてくる。
休むのは、斜面を適当に穿った窪みで。焚き火をしたのは気紛れかと思えば、ホルトは律儀に火を熾す。
こちらに合わせて、あの男も止まった。やはり焚き火をしたが、煙に妙な臭いをさせる。柑橘類のようでもあり、鼻の奥にべたっとした感覚を残す。
さほど強くはないが、何を焼けばそうなるのやら。
「変な臭いがしますね」
「人間の食い物じゃねえのか」
「さあ、わたしが知らないだけかもしれません」
そうして二つ、三つ。連なった山を越えた。棲み処を出て、三日目だ。難儀をしたわけでなく、急ぐ理由がない。
開けた高台に出て、これから行く先の景色が視界に収まる。
見渡す限りの草原。奥は深い森。獣の隠れ場所に誂えたような、大きな茂みがあちらこちらへ。
かなり遠くに、また連なった山が見える。越えてきたのと同じく、それほど高くはなかろう。
きっとそこから流れ出た川が、左から右へゆったりと横たわる。
風は少し荒く、けれども素直に正面から吹いた。クレアの金髪が、光を撥ねて靡く。
「いいところだなぁ」
「草の匂いが気持ちいいです」
「凄えな。こんななら、もっと早く来るんだったぜ」
この辺りには、ネイルもホルトも来たことがなかった。島の奥は強者の巣だと聞いていたから。
だが現実は様々な獣の群れが、ここにもそこにも。果実を抱えた樹木など、種々数え切れない。
当然に肉食の獣が居て、魔物の姿もあった。しかしおそらく縄張りを敷いて、獲物を奪い合うようなことはない筈だ。自然の弱肉強食が、そこにある。
「ネイル、あれかなぁ」
「たぶんそうだ」
山々の中に、一つ頭を飛び出したのがあった。他は上から下まで緑が濃いのに、それと周囲だけ茶色の岩山になっている。
誰が言い出したのか、誰から聞いたのか。思えば噂の域を出ないが、竜の城だ。
その様子だけは、知識と違うところがない。
「獲物も居なさそうだし、行く必要がねえ」
「そうだなぁ。竜を食ったって話は聞かねぇしなぁ」
ホルトは、竜を味わってみたいと思ったのか。それはネイルも想像してみなかった。
好戦的と言うなら自分だが、そういうおかしな興味が旺盛なのは、彼のほうかもしれない。
「竜? 竜が居るんですか」
そこへ別の好奇心が口を出してきた。聞いてもいないのに、「物語によく出てきて、人間に化けたりとか」などと憧れを語る。
「本物は化けねえ」
「あら、そうなんですか――残念です」
乗り出しかけた半身が、おとなしく元の位置へ戻っていった。
言いきったものの、竜の生態など知らないし見たこともない。何だか嘘を言ったようで、気分が悪い。
「化けるにしたって、見たときには俺たちゃ死んじまってるさぁ。何せあいつらときたら、ネイルの爪も立たねぇからなぁ」
「竜はそれほど強いのですか」
仮定の話をどうして広げるのか。クレアも「それほど強い」とは、何を基準にしてもいるまいに。
「話に聞いただけだ。牙も爪も立たねえし、この腕も鹿と変わらねえとさ」
岩をも砕く爪。岩にも似た強固な皮膚。そのどちらも通用しないなら、ネイルは全くの無力だ。
当然にこれも仮定だが、そんな相手と戦う益などない。
「そうですか、この腕でさえ」
小さく華奢な手が、しゃらと撫でる。一度でなく、何度も。濁った目も向けて、丹念に調査でもされているようだ。
触れた感覚以上に、くすぐったくてたまらない。
「ああっ、何だってんだ」
「すみません。ネイルは強いのに、驕らないのだなと思って」
「驕る?」
ぶるっ、と肩を震わせる。
落とすつもりは毛頭ないが、何やらクレアは危なげなくバランスをとった。うまく乗りこなされているようで、悔しいと言うべきか面白いと言うべきか。
「自分より強い者を認めるには、勇気が要るのだと思います」
「何だそりゃ。オレより強いか弱いか、知れなきゃ戦いようがねえだろうが。強え奴は強えんだ」
当たり前のことを、どうしたというのか。強い者は強い。だが完璧な者もそうは居ない。
重要なのは、強い者の強いところを避け、弱い部分を探すこと。竜などはそんなことを言っていられる相手でないのが問題なのだ。
それを言うと、クレアは得心したと頷く。
「そうですね。だからあなたたちは強く、美しいのですね」
「美しい? オレが?」
目が見えずとも幻は見るのか。ホルトと二人、顔を見合わせて笑った。人間の美的感覚は知らず、ネイルは己を美しくないと思う。
ホルトはなかなかのものだ。月を見上げるときの凛々しさなど、人間が絵を描く気持ちも分かる。
「ありもしない実力で、他者を下に置こうとする。叶う筈のない望みに、道理を曲げて向かう。放置すればただの雑音が為に、娘を殺そうとする」
人間は驕ってばかりだ、と。クレアは一つひとつ、記憶を辿る素振りで呟いた。
「わたしも例外ではありません。幼いころは目の見えないことを恥じて、見えると嘘を吐いたり。それが無理筋と悟れば、わたしだけの宝物を持っていると言ったり。醜いものです」
そんなことがあったのだろう。話は分かるが、その嘘で何の得が見込めるのかは分からない。
慰めてやろうなどとも思わないが、一つ聞いてみたくはあった。
「今は」
「今、ですか?」
「見えねえことを隠したいのか」
強さを偽ることそのものは悪くない。それで勝てる勝負もないとは言えない。
良くないのは、その嘘を真実と自身が錯覚することだ。そんな勘違いをした者は、直ちに打ちのめされる。
それはこの島で、死を意味する。
大切なのは、持たないことを隠すのでない。持つもので何が出来るか考えるのだ。
「いえ。そんな気持ちは、とっくに諦めました。それに、今と言うなら。今は見えます。あなたたちの、大きな心が」
この娘は、わけの分からないことばかり言う。出会ったときの、変な奴という感想は深まるばかり。
「オレは頭が悪いんだ。妙な言い回しをするんじゃねえ」
「いいえ? わたしは思ったままを言っているだけですよ」
それでも段々と。このおかしな人間の娘の言葉を、もっと聞きたいと感じるようになったのは――思い過ごしに違いない。
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