第17話 ネイル-14 『煉獄よりも』
棲み処の入り口に三人。中に入って二人。猪人と小鬼と、倒れていた。死んではいないが重傷だ。
土の洞窟から岩穴へ。その境目辺りに、また二人。これにはもう息がない。すぐ傍へは、数人の子どもらも。
オレの仲間に何をしてくれるか。もはや、そう叫ぶことさえ忘れた。
――まだ居るだろう、生きてる奴は。オレの仲間は、まだ残ってる筈だ。
「笑い声――?」
ここでは聞き慣れない、人間の声。下卑たそれの方向は分かるが、距離が曖昧になる。
獲物を分けた広間。今は動かない子らが転がり、嫌悪すべき真新しい臭いに満ちた。
――ふた手に分かれたか。
いつもネイルが使う横穴。そこには臭いがなく、前を通り過ぎた。そこにあった筈の匂いは薄れ、上書きされてしまった。
「どこだ人間ども」
噛みしめた歯の隙間から、血の色をした声が漏れ落ちる。同時に噴き出る熱い蒸気に、掻き消されるほどの微かなものだが。
押さえつけた感情が、鼻と口から。いやさ全身から、実体を持って
「やめろ!」
「する、参った!」
聞こえたのは、命乞いをする仲間の声。すぐ近くだ。大きな隙間から海の見える、棲み処では最も高い位置にある場所。入ってきた海鳥を捕まえるのは、小さな子どもたちの練習にちょうど良かった。
「猪の顔で、人の言葉を喋るんじゃない。気色悪くて、うっかり殺してしまいそうだ」
「違いない。手が滑っても、お前たちのせいだ」
足音を潜めもせず、憎き人間の背中へ向かった。どうせそこから逃げ道はない。
気付いて振り返り、ネイルの姿を認めた人間が慌てふためく。
「なにっ、早すぎる! 陽動はどうした!」
「知るか!」
数は三人。格好はどれも袖のない鎖鎧に、刃の厚い長剣。一人が仲間に向けて剣を振り上げ、二人はこちらへ突っ込んでくる。
「口をきくだけが能の猿が……!」
跳ぶ。
左右の腕にそれぞれ引っ掛け、地面に突いて殺そうとした。
一人はその通り、もう一人はするりと身を躱す。そのまま走り抜けて、逃走する気だ。
しかしまずは、もう一人。ネイルの目の前でまた、猪人を切りつけた人間。
走る勢いをそのまま、手刀を背中へ叩き込む。岩をも砕く爪を以てして、斧と呼ぶべき一撃を。
「ぐっ、ばはぁ……」
その人間は息と血とを同時に吐き出し、二つに折れた。まま、勢い余って壁まで突き当たる。崩れた岩もろとも、死体は崖下へと消えた。
「お前ら、無事か」
仲間は猪人と小鬼で三人。それぞれ怯えた様子で頷く。最後に切りつけられたもの以外に、小さな傷が数え切れないほど。
だがいずれも、死には及ぶまい。
「待ちやがれ!」
逃げた一人を追う。非力な人間が金属の鎧など、こうなれば足枷となる。またたく間に追い付き、叩き伏せた。
――まだ居る筈だ。
それは敵のことでない。生死を問わず、まだ見ていない仲間が居る。それにクレアも。
ならばふた手に分かれた、もう一方だ。
そちらは岩穴から、また下る道。降りるにつれ、潮と糞尿の臭いが増していく。
「クソ、臭いが。食うのも出すのも、ところ構わずしやがって」
いくらか横穴もあって、狭いのをどうにか通れば外へ出られなくもなかった。だが焦って逃げた者が、そんな危険を冒すことはあるまい。
波の砕ける音が篭って、どぷんどぷんと不愉快に響く。その合間、声が届き始めた。
「お嬢さま。あなたが生きていると、邪魔になる」
「わたしが邪魔ならば、わたしだけを殺しなさい。この人たちには関係ないでしょう!」
「――関係はありませんな」
クレアの声。震えながら、強い意志で反抗している。ネイルには狭い道。滑る足をさらに速めた。
――あの馬鹿女、そんなに死にてえのか。
「だが魔物を人などと。お父上が聞けば、悲しみます」
「父ですって? こんなことをする鬼が、父などであるものですか」
「やはり。気を違わされましたか……」
クレアと敵との距離は近い。幸いに海の泣き声が、多少の音をごまかしてくれる。
なるべく、そっと。気付かせずに近付き、己が死んだことも悟れぬほど素早く潰すのだ。
「あなたたちには見えないの? この人たちの、懸命に生きる姿が。ここは温かいわ、暖炉のようにね」
「暖炉ですか? 煉獄の誤りでしょう」
「煉獄でも構いません。凍えた心で生かされるよりも、よほど」
見えた。敵は四人、先ほどのと同じような格好。
海水に半身を浸したクレアは両腕を広げ、その後ろに猪人と小鬼の女たちが身を寄せ合う。
女たちの間に見え隠れするのは、子どもたち。小さな
「ここには王が居ます。あなたたちが望んでも得られない、強い王が。その国を守る為なら、死など怖れはしません」
「おかわいそうに。お嬢さまは無事に天へ旅立たれたと、お伝え致しましょう。それがせめても、私の良心です」
一人の持つ松明が、振り上げられた長剣を鈍く光らせる。
その光景に仲間の女たちは目を伏せ、クレアはぐっと睨み付けた。刃が風を切る音くらい、聞こえているだろうに。
「死ねっ!」
その言葉が、最期となった。思いきり振りかぶった赤き鬼人の手が、脳天から男の身体を圧し潰す。
がらん。と白々しく、落ちた剣が響く。
なぜそれが振られなかったか。なぜ落ちたのか。他の男たちには、まだ理解できていないようだ。
棒立ちの一人に、蹴りを見舞う。その隣の一人へは、横薙ぎに平手を叩き付ける。最後の一人は、首と顎に食らいついた。
臭い脂が鼻腔を侵す。やはり人間など、食うものでない。噛み砕いた骨を、当人に吐きつけて返す。
「……お前ら、無事か」
息が乱れるのは、怒りのせいだ。まだ治まらないが、もうぶつける相手は居ない。
強いて肩を動かし、自分を落ち着ける。すぐに返事のないのが、逆に良かった。
「死んだ。みんな」
「ああ」
「人間。殺した」
「知ってる」
「守った。子どもたち」
「すまねえ」
女たちは、やっとそれだけを言った。嗚咽しているが、つまり命に別状ないのだろう。
「お前は」
クレアには、聞くまでもない。あれだけ啖呵を切ったのだ。
女たちと子どもと、我が身を挺して守ってくれた。そんな彼女に、何と言えば良いのか分からない。
その代わりのようなものだ。
「おめおめと、生きながらえてしまいました」
「オレは、無事かと聞いたんだ」
もう一度聞く。形にならない自分の想いと、当を得ない返事が少し苛ついた。
何を戸惑うか、クレアは数瞬の間を持ってようやく答える。
「はい、わたしも無事です」
「そうか。遅くなった」
「おかえりなさいませ」
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