第三章:新たな地へ
第13話 クレア‐03 『心に棲む王』
クレアの母は、知る限りずっと臓腑を患っていた。もちろんそれは、本人や周囲の者から聞いて、知っただけだが。
亡くなったのは、十一になる少し前。それまでずっと、ほとんどの時間を母の居る寝室に入り浸った。
とても。
とても、優しかった。
「森の王は誰の意見も聞きいれず、死んでしまいました――おしまい」
「お母さま。どうして? 森の王は、どうして頼みを聞かなかったの」
「クレア。あなたはどう思う?」
五、六歳くらいまでは、それほど調子も悪くなくて本を読んでもらっていた。森で最も強い熊が主人公の物語など、何度聞いたか分からない。
「強いから――自分だけで何でも出来ると思ってしまったのかしら」
「そうね。きっとみんな、そう感じると思うわ。でももしかしたら、違うかもしれない」
母は言った。
鹿も、山羊も、小鳥たちも、話を聞いてくれないと言うばかりだ。熊には熊の言い分があったのではないか、と。
「熊が居なくなったあと、みんな幸せに暮らしたとあるけど。それは森の王が、本当にみんなの為を想っていたからでは? と、私は思うの」
「そうね、お母さま。わたしもそう思う。そうに違いないわ」
本当にそうだと、納得して同意を示した。けれども母はゆっくりと、穏やかに首を横に振る。
「いいえ、クレア。今のは私の感じたこと。あなたはあなたの感じることを、よく考えて。でなければあなたも、森の動物たちと同じになってしまうわ」
「わたしが、どう感じるか?」
母が言ったからと、すぐに信じてはいけない。母も他の誰も、間違わない人など居ないのだから。
そう言われても、クレアにとって母は女神にも等しい。その言葉が間違っているなどと、思ってもみない。
「そう。誰かの言ったこと、したことの、意味を考えるの。そうすればみんなの意見が間違っていてもいなくても、すべて叶えられはしないって分かる筈だから」
誰かと同じなのが、必ず正解とは限らない。人に羨まれることが、必ず幸せとは限らない。
そんなことを言ってしばらく。母は急に容態を悪くして、ろくに口を聞けなくなった。
「バドウと申します。当家には長らくお仕えしておりますが、クレアお嬢さまのお目にかかるのは初めてでございます」
母の死後、側仕えをしていた使用人には暇が出された。すると母のついでに世話を受けていたクレアには、誰も居ない。
そこで世話役となったのがバドウだ。専属ではなく、その日ごと手の空いている者を効率よく回すと言っていた。
「侯爵閣下も、お嬢さまの身の上を案じておいでですよ。どうか幸福が訪れるようにと」
姉たちの婚姻を纏めたのも、バドウだと聞いた。いずれも劣らぬ名家ばかりだと。以前は他家との交流を任されていたので、その縁は広いらしい。
だがクレアは、自分で文字を読むことが出来ない。踊りも
それを妻に迎えたいなどと言う貴族が、居る筈もなかった。一つ下の妹が嫁いだのも、もう三年前のことだ。
「役立たず」
「出来損ないの人形」
声色を変えれば、誰だか分からないと思っているのだろうか。他の誰かが居れば優しげな言葉を向ける者ほど、裏ではそんなことを平気で言った。
しかしそれを、誰にも言わない。役立たずなのは、事実だから。
食事も、排泄も、ベッドに入ることさえ。誰かの手を煩わせた。手間をかけているのは分かっても、どんな手間なのか、自分の何がいけなかったのか分からない。
次には気を付けようと思っても、何に気を付ければいいのか分からない。そんなクレアに不満を持つのは、当たり前だ。
ただ。バドウはそれを感じさせなかった。
熱いスープをこぼせば、火傷をしなかったかと心配を先にしてくれた。糞尿に脚を汚しても、一つ拭くのと二つ拭くのと変わりはしないと言ってくれた。
最近は、甘えすぎていただろう。彼は無事なのかと思うが、知る術がない。ネイルたちに、バドウを見分ける方法はないのだから。
「何をしようってんだ人間ども」
クレアをさらった魔物は、巨体を震わせて憤った。聞けば種族もそれぞれ違うという、たくさんの仲間を想って。
子どもたちは彼を憧れてやってくる。それは親密になろうと試みたクレアに、ひしひしと伝わった。
ネイルが歩けば、仲間たちは必ず何か反応する。好かれようとしたり、当たり障りなくやり過ごしたり。不満を言えば、知らぬところで勝手をする者も。
彼はそのいちいちに、あれこれ言いはしない。しかし度を過ぎれば、雷鳴のごとき怒号で戒めた。
言葉少なく。芯はどこか、いつも弁える。ネイルの姿が、クレアの見えない目にはそう映った。
「ああ、あなたはこの岩穴の王なのね」
口に出したわけでない。だがその想いを、クレアはたしかに胸へ抱いた。
今のところ、彼にも迷惑をかけている。けれどもそれを、少しでも返したいと思う。一つ返す間に、百も二百も受け取ってしまうだろうが。それでも。
すぐに見放されるかもしれない。だがそのときに、誇れるようになりたいと思った。自分は一瞬でも、ネイルの仲間だったと。
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