第10話 ネイル-08 『彼らの日常』
それからクレアは、じっと動かなかった。いつもの横穴。ネイルの定位置から、彼女の脚で四歩の距離。そこで座ったまま、ずっとネイルに視線を向けた。白く濁る、何も映さない瞳を。
――見えもしねえで、何が面白えんだか。
そう思ったきり、ネイルも放っておいた。
彼女を食うという選択肢は、初めからネイルにない。そこへホルトが、クレアのことを「あれはネイルのだ」と宣言した。すると仲間は「あの人間はネイルのお気に入りだから、下手なことは出来ない」と考える。
誰かを捕まえて聞いたわけでないが、間違いなくそうだ。実際に彼女の食事をホルトが持ってきたあと、蜥蜴人や猪人が似たような物を何度も持参した。
「ありがとう、とても嬉しい。でもこんなには食べられないの」
食べ物を山と積まれたのが、匂いででも分かるのだろう。それが彼女の体積よりも大きくなった辺りで、クレアは申しわけなさそうに言った。それでしばらくは、新たに持ってこないとなった。それもホルトが伝えたことだ。
人間が何を好んで食べるのか。どれくらい食べるのか。ネイルは知らなかったし、知ったところで何をしてやる気もない。
「居るんでしょう? わたしのお友だちになって」
することもなくネイルが寝転んでいると、クレアはその食料を使い始めた。今度こそ、まだ幼い子らを仲間に取り込もうという心積もりらしい。
何度かの失敗を経て、その試みは成功した。最初の一人がその手から直接に干し肉を齧ると、同行していた二人目。様子を聞き付けた三人目と、着実に勢力を増していく。
十人を超えた付近で「うるせえ!」と、ネイルが追い散らすまで。
「すみません。勝手な振る舞いをしました」
だがすぐに、そうやってクレアが謝ると、それ以上を責めるのはなかなか難しい。
自分が食うでなく、仲間の誰も手を出さない。そんな彼女に何をしろともするなとも言っていないのは、ネイル自身だ。
「お、大勢で一度に来るんじゃねえ。少なくしろ」
「少しずつならいいそうよ。順番ね」
――いいとは言ってねえんだが。
見苦しい無言の足掻きも、「ありがとうございます」との言葉に封印される。それからは子どもたちのほうでネイルの機嫌を窺い、二、三人ほどが来るようになった。
夜が明けてしばらく、ネイルは眠った。
武器も持たないクレアが居たところで、危険はない。いつと決めているでもなく、いつもの頃合いだ。
それを察して、クレアも身体を横たえた。船から運んだときのように、自分で毛布を巻き付けて。
目が覚めたのは、棲み処に夕陽の差し込むころ。既に彼女は元のように座って、やはりこちらを見ている。
ただ、表情に変化があった。喜怒哀楽のどれでもなく、苦痛に歪んでいる。
「どうかしたか」
「いえ。あの、なんでも――」
病気という概念を、ネイルは持っていない。魔物が罹患しないわけでなく、その時々で痛いとか苦しいとかいう、体調の一つとしてしか理解していないからだ。
当然、医者や薬を頼る発想もない。よほど酷ければ、経験から効能を知った薬草を丸齧りすることはあるが。
それでも当人が言いたくないのなら好きにするさと、僅かに湧いた興味を萎えさせた。
「あの……」
「なんだ」
相当の間を置いて、今度はクレアが呼びかけた。さっきよりも一段と苦しそうで、顔色も変わった。
「とても言いにくいのですが」
「だからなんだ」
「は、
「はば――なんて言った?」
何か宥めるように脚をさすり、身体全体を震わせる。やはり体調が悪いのだろうとは、ネイルにも分かる。
だが何を求めているのか、それはさっぱりだ。
「小用です」
「ショウヨウ?」
「しょ、小便です!」
なぜ声を張ったのか。どうして俯いたのか。小便を我慢すると、そうなるのだろうか。分からないことだらけだが、どうしたいかは分かった。
「それならそうと言え。下に――」
いま居る位置から下ったところへ、海水の入り込んでいる場所がある。癖の悪い者は途中で済ませたりもするが、一応はこの棲み処にも便所が存在した。
そこへ行けと言いかけて、決して足場の良くない道中を思い出す。
「仕方ねえ」
「えっ、あの」
また左の肩に乗せ、そこまで連れていった。道すがらに居た仲間たちは、ネイルに気付くとすぐに道を空ける。それまで何か食っていようと、じゃれ合っていようと。
向けられる視線は様々だ。
それは言葉によって「その人間、うまそうだな」と、擦り寄ったり。「次もいい獲物があればいいな」と、信頼がこめられたりした。
ネイルも答えて「おう」、「そうだな」と彼らの長に相応しい重みを声にする。
「ひっ」
流れの弱い場所は選んだつもりだ。しかし何の説明もなく海水へ浸けられたクレアは、ぎゅっと目を閉じる。
何度か大きく息をして、ようやく「ここは?」と言葉が発せられた。
「小便だろ? そこですればいい」
「水の中で――なるほど、すぐに洗えていいですね」
理解したようなので、じっと見つめた。さすがにネイルも、用を足すのに話しかけられれば鬱陶しいことは分かる。それに今は流れがなくとも、あくまでそこは海の一部。いつ強い波が来るか知れないのだ。
我慢していたのだろうに、クレアはなかなか行為に及ばない。だがじきに、覚悟を決めたような強い息をふっと吐いて、スカートを捲り上げた。
その後、彼女はネイルのすぐ脇へ座るようになった。棲み処のどこへ行くにも着いて歩き、難しければネイルが担ぐ。
狩りにまで行きたいと言われたら面倒だ。という心配は、杞憂となった。それがどんなものか話してやると、クレアはふらふら立ち上がる。
「いってらっしゃいませ」
と。告げられた言葉はネイルに馴染みがない。けれども不思議に、心地良いものだ。
そんな時間が一日、二日と積み重なっていく。数える意味も理由もないネイルの記憶で、十日前後も経ったころ。
事件は起こった。
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