第二章:目指す方向

第7話 クレア‐02 『問いに問い』

 クレアが目覚めたのは、硬い岩の上だった。ひやりとするが、寒くはない。砂が浮いて、起こした頬から砂粒の落ちるのがくすぐったい。

 声の大きな誰かによって毛布に包まれ、担ぎ上げられたのは分かる。それからどうしただろう。

 思い出そうと顔に触れて、砂がざらざらっと落ちる。粒の形に跡が付き、ぼこぼことした感触が指先に新鮮だった。

 ――土や砂に触れるなんて、今まであったかしら。

 いや違う、そうではない。自分はなぜここに居るのか。ここはどこなのか、だ。

 思い出した。クレアは風になったのだった。

 ぐうん、と高く持ち上げられ、今と同じく岩に毛布を敷いたようで。きっと男は、そのまま走った。飛ぶように。巻いた毛布の口から、冷たい海の匂いが飛び込む。次から次と。

 高さも、速さも、振動も、初めてのことばかりだ。心地よさもあったけれど、怖かった。ほんの少しだ。

 ――それで、気を失ったんだわ。


「あの、誰か――」

「キッ! キキィー!」


 あの男が傍に居るのでは。そう思って、声を発してみた。すると先に聞いたのとは似ても似つかぬ、小動物じみた声。

 それはクレアのすぐ近く。手の届くくらいから聞こえて、逃げていった。


「誰? 栗鼠リスさんかしら」


 幼いころ聞かせてもらった物語に、そんな話があった。主人公が森で目覚めると、心配した動物が集まっているという場面。

 知識としてはあるものの、住んでいた侯爵家に居たといえば馬だけだ。他には枝を伝って窓辺を訪れる栗鼠や、小鳥くらい。

 今の声がそうであれば、動いた気配と声が大きすぎはした。


「小鬼の子だ」


 やはり。夢現ゆめうつつの幻ではなかったと理解する。その声はクレアを船から連れ出した、誰かのものだ。


「小鬼?」

「そうだ。この穴ぐらに大勢居る」


 そのときよりも、声は抑えめだ。感情は、よく分からない。怒っているようではあるが、穴ぐらと言ったから、ただそのせいかもしれない。


「子って――小さいの? まだ子どもってことね」

「それがどうした。まだ生まれて一年かそこらだ」

「素敵! わたし、赤ちゃんに触れたことがないの! まだ近くに居るかしら!」


 小鬼がどんな生き物か、聞いたことがなくはない。物語には頻繁に登場するし、家畜を襲ったり森仕事をする人が襲われたという話も多い。

 だがそれはクレアにとって、どれも現実の話ではない。

 いやもちろん、実際にあったのだろうとは思う。この場合の現実は、己の身の上に関わるかということだ。

 家畜の話も木こりの話も、それは近くに居る誰かが別の誰かに言っていただけのこと。幼いころのおとぎ話を最後に、クレアを目がけて話す者は数えるほども居なくなった。


「居るが……」

「どこかしら。どこ? もう歩けるのよね。もう一度、わたしのところへ来てくれないかしら」


 なぜクレアがそんなことを言うのか。男は図りかねているらしい。

 けれど何が不思議なものか。可愛いものを触れたいと思って、何が悪い。ここには父も継母も、口うるさいばかりの兄や使用人たちも居ない。

 おそるおそる、近付いてくる足音がした。そちらへ手を伸ばし、じっと待つ。

 じり、じりと。とても小さな気配だ。もしも木彫りの人形が歩いたとして、もっと賑やかに違いない。


「大丈夫。わたしは仲良くなりたいの」


 分かる。もうすぐだ。あちらも小さな手を差し伸べてくれている。

 つ、と。触れた。

 しかし我慢をして、まだ動かない。すると手のひらを這うように、小枝のごとき指が動き回る。

 それだけがまた別の、小さな生き物のように。その手はクレアの手を撫で回す。想像した柔らかくふわふわとしたものでなかったが、ぎこちない動きのそれがまた愛おしい。


「――あ、痛っ!」


 鋭い痛みが、指先を刺した。

 かさかさした皮膚らしき感触。それが痛みの素である、熱い槍を引き連れてさっと逃げる。

 どうやら噛まれたようだ。

 一瞬、手を引いてしまっただろう。上げた声も、驚かせたに違いない。

 すぐに血が滴ったけれど、構わない。相手はまだ生まれて間もないのだ。これくらいの失敗など、自分に比べれば失敗のうちに入りもしない。


「ごめんね、ちょっと驚いてしまったの。謝りたいから、こっちへ来てもらえるかしら」


 気配は、さっきよりも遠い。しかし注意は向いている筈だ。

 話して、分かり合いたかった。仲良くなりたいと。噛まれれば痛いのだと、知ってほしかった。


「お前ら邪魔だ。あっちへ行ってろ」


 そこへ小さな雷鳴が響く。不機嫌な男の声に、友人候補たちは逃げていった。そうだ、一人ではなかった。


「お前、何だ?」

「何だ、とは。何をお答えしましょうか。名はクレアです。フレド侯爵の娘では、三番目です」

「それはもう聞いた」


 言っただろうか。言ったかもしれない。

 船では人の断末魔が次々と聞こえて、それが途切れたと思えばとても寒くなった。死ぬならわけも分からぬ間に、さっと死ぬれば良かったのに。

 恐怖で動転して、歌を口ずさんだのは朧に覚えている。


「それでは何を、ええと――あなたのお名前をお聞きしても?」

「……ネイル」


 声は上のほうから降ってくる。その巨体や触れた感覚から、人間でないのは想像がついた。

 けれどもそんな彼。ネイルも戸惑っているのが、クレアには分かった。

 ――小鬼や魔物が話も通じないなんて、嘘じゃない。わたしにはよほど人間のほうが、何を考えているのか分からないわ。


「お前。死ぬのは怖くないのか」


 なんだ、そんなことか。答えることが出来そうで、安堵する。


「痛かったり苦しかったりするのは少し、怖いです。でも死ぬのは……意味なく生きるよりも、よほどいいでしょう?」


 言葉と言葉。紡ぎ合わせ、想いにする。

 振り返れば、それを問われたのも、答えたのも、初めてだ。それならもう一つ、初めてを重ねよう。そう思った。

 人の想いを、問うてみるのだ。


「あなたは怖いの? なぜ生きるの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る