カヌス -canus-

 カヌスが横たわっているのは、まるで知らぬ場所だった。足元に銀色の水が張られているから、一見すると月の湖面を連想するが、墓標もなければ墓守の姿もない。それどころか、湖に果てもない。月の湖面であれば、少なくとも辺境の堺があるはずだが、それすらないときた。

 湖に立ち上がる。ここに訪れた経緯がまるでわからない。記憶にぼうっと靄がかかっていて、何かを隠されているようだ。誰かがカヌスの頭の内に秘密を抱いていることは疑いようもなかった。であれば、ここはさしずめ牢獄か。

 カヌスはゆっくりと歩き出す。水音がぴちゃぴちゃと反響するたび、からだが重たくなった。最初は着ているコートが枷になったのかと思い込んで、乱暴に脱ぎ捨てた。少し楽になった気がしたが、やがてベストも重たいことに気がつく。そうして徐々に着ているものを捨てていると、ついにはズボンのベルトもはずして、その場に膝をついた。何かが背中にのしかかっているような感覚。息苦しく、生温かい。

 ついには倒れこんだからだには、やはり何者かがとりついている。ごろりと転がされて仰向けになると、数え切れないほどの瞳がよく見えた。頭ばかり大きくなって、青白い艶のある表皮が柔らかく揺らいでいる。瞳はそこに埋め込まれていた。さらに彼には手があるが、瞳同様、カヌスよりずいぶんと多い。一つ、二つ……六つある。そのどれもに間接らしい間接はなく、ゆるゆると波打つのだ。足は見当たらない。さながら蛇のように、胴から一本の尾が続いているだけだ。

 彼はカヌスのからだのうえにのしかかる。ずいぶんと重たい。いままで枷のように感じていたのは、彼の体重だ。

 そこをどいてくれ。言おうとしたカヌスの口を、手の一つがふさぐ。ぬるりと湿っていて、形を変えながら口内に入り込む。さらに奥へ。喉のなかへ。

 差し出された手は熱く脈打っていた。まさか、そんなはずは。抱いた疑念は確信に変わる。まるで、カヌスの背中にとりついたときから準備は整っていたのだといわんばかりに、腕から噴出される欲望の液。口からあふれ出るほどの量がある。

 そのあいだ、彼は持て余している情欲を奔放に解き放つ。腕の一つがカヌスの胸を開かせた。普段カヌスが愛撫に使うのよりはるかに鋭利な刃物を用いたかのように、それは一瞬でできあがった。骨などは、彼の体重で砕いてしまう。臓器に突き刺さるのもお構いなしだ。

 なんて乱暴なと抗議することもできやしない。口は塞がれたままであるし、なにより、剥き出しにされた秘部に彼の手が何本も滑り込んで、それどころでなかった。まさぐられているのか、掻き出されているか、わかったものではない。ぐちゅぐちゅと激しい音をたてながら、彼はしきりに身をくねらせていた。それからまもなくだ。また、驚くべき量の愛液が注ぎ込まれた。

 腹が熱い。じゅくじゅくと疼くものがある。彼のからだの下敷きにされ、そこでなにが起こっているのか、目視できない。

 陰部を執拗に攻める手から逃れようともがくうちに、彼は一つの声を見た。はっきりと姿を持って、流れ込んでくる。そんなはずはないと、思い込もうにも、もう遅い。理解してしまった。これは「胎盤」だ。旧き者たちに望まれたものだ。

 彼の手がカヌスの背中をやぶく。なにもかもが溢れて、もはや意識を保っていることは不可能だった。



 何かを忘れていると感じたのは、これがはじめてではない。カヌスは数度だけ何者かに秘密を抱かされているし、そうでなくても酒の飲みすぎということだって多くある。今回は間違いなく後者だろう。激しい頭痛と、こみ上げてくる吐き気がある。全身が重たくて、ひどく喉が渇いた。

 旧市街にあるアパルトメントの一室、いつも男を連れ込むのとは別の部屋で目を覚ましたカヌスは、低いうめき声をこぼしながらベッドから立ち上がる。シャワーは使えるが、ベッド以外の調度が一切ない部屋だ。窓もランタンも割れている。床板は腐っていて、数箇所カヌスが踏み抜いた跡が残っていた。

 飲み水を探そうと歩き出したカヌスが、自分の足につまづく。間抜けに転んで、急激な腹の痛みを覚えた。刺すような強烈なものだ。加えて、異物感がある。なかで何かが蠢いている。

 違和感に気付いてからのカヌスの行動は迅速であった。一度態勢を整えて、ベッドに背を預けながら床に座り込むと、ベストをはだけさせ、ブラウスをめくりあげる。愛撫用のナイフを逆手に握り、自分の腹を真横に掻っ捌いた。

 ずるりと滑り落ちるものがある。大きさは、実にカヌスの前腕部ほど。全身が滑らかな外皮で覆われていて青白い艶があり、頭に相当するものは見当たらない。かすかにだが、ゆっくりと動いていて、静かに床のうえを這っている。「幼体」だ。

 ナイフを放り出したカヌスは奥歯をぐっと噛みしめて、腹の奥へと手を突っ込んだ。小さなものがいくつも存在して、自由に泳ぎ回っている。乱暴に手を握るだけで、そのうちのいくつかを捕まえることができた。体外に引きずり出すと、最初に飛び出したのと同じような見た目をしていることがわかる。だがこちらは、かなり小さいことからも想像できるとおり、まだ未成熟であったようだ。外気に触れるや、すぐに活動をやめてしまった。何度か腹の内を掻き出した。淀んだ色の胃も腸も膵臓も引き出して、息を詰めながら力任せに引きちぎった。表面には未熟な幼体がびっしりとこびりついていたのだ。

 荒い呼吸を繰り返しながら、しきりに自分のなかをさらけだすカヌスのもとに人が訪れたのは、まもなくのことだ。一瞬、幼体の気配を嗅ぎつけた相棒だとも思ったが、幸いにも別人だった。玄関扉もない部屋にずかずかと入り込んだ彼は、いつぞや抱いた男に見える。こんな場所では珍しい、「真実の銀」を惜しむことなく使ったロングバレルの銃を手にしていた。

 いま忙しいんだ、あとにしてくれ。途切れ途切れに伝えるが、男は応じない。黙り込んだまま、銃口をカヌスの頭に向けた。まもなく引き金が絞られる。容赦も猶予もあったものではない。

 カヌスのからだは力なく床に転がった。血に沈む彼の周囲では、大きな幼体一つを残した他すべての個体が、泡ぶくになって蒸発してしまった。

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Garden of Mensis -Night- さいとういつき @copyJackal

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